築山館跡(つきやまやかたあと)

築山館跡八坂神社・築山神社境内にあったと伝えられる大内氏の築山館の跡のことです。
大内教弘が築山殿と称されていることからその時代に造られたと考えられています。山口を訪れた連歌師宗祇に「池はうみ 木すえは夏の みやまかな」と詠んだものがあることから、立派な庭園があったとおもわれています。  

築山館跡「史跡大内氏館跡」の石碑。

右の説明板曰く、
「ここは大内氏28代教弘が15世紀中頃に築いたといわれる築山館跡です。築山館は教弘以後歴代当主の居館となったところです。
中世の連歌師宗祇は「池はうみこずゑは夏の深山かな」と詠んでおり、この句からかつて豪華であった庭の様子が忍ばれます。
築山館は大内氏滅亡後朽廃しましたが、園池の跡は残っていたといわれています。しかし、この池も江戸時代中頃周囲の築地の土をもって埋めてしまい、現在のようになったといわれています。
江戸時代末の絵図によると、築地の外面は自然石の石垣であったことが伝えられています。 現在指定地内の北西隅に、かぎの手い土塁(築地)が残っていますが往時の館の規模を示す遺構として重要です。
指定地内には八坂神社(本殿が国指定重要文化財)と築山神社があります。

築山館跡「池はうみ こずゑは夏の 深山かな」という宗祇の発句が刻まれている石碑です。句は宗祇の「老葉集」に収められています。文明12(1480)年、大内政弘の頃のことです。このときの旅行は「筑紫道記」として書き表されています。当時の大内氏領国内の様子がわかります。
宗祇は長享3(1489)年にまた山口を訪れ、殿中で9回連歌会を催すほか、伊勢物語の講釈をして「伊勢物語山口抄」を残しています。

築山館跡「筝曲組歌発祥之地」石碑。昭和41年建立。碑の文字は佐藤栄作。

大内義隆は京から迎えた北の方(正室)をなぐさめるために、しばしば都から下向している公卿や楽人などを招いて詩歌管弦の遊びを催していましたが、ある時その席で七人(則春、清政、春孝、重頼、高雅、行道、是正)の若い殿上人が一首ずつ歌を作り、つぎつぎに筝で弾き歌いすることが行われました。これが筝の組歌(歌の組み合わせの意)の起源といわれてます。最初の組歌「ふき(菜蕗?富貴?)」は七首でしたが、やがて一人(行道)が早世したため以後の曲では六首になった、という伝説があります。
この組歌が、筑紫筝を大成した賢順に伝わり、八橋検校は賢順の弟子の法水に学んで工夫を加え、今日の筝曲の創始につながったといいます。

築山館跡
盃状穴(はいじょうけつ)が刻まれた巨石。

盃状穴は、性のシンボルとして、死者をよみがえさせることや、豊作を願うことを意味する刻印と考えられている。
今日でも、一種の「願(がん)」をかける場として使用されている。ヨーロッパでは、田舎の女性が男児出産を祈る時に、盃状穴を訪ねたり、夜間にバターを盃状穴に流しこんで祈れば、その年の家畜と農業の生産高が上がるという信仰が続いている。
この盃状穴の歴史は古く、先史時代のヨーロッパの岩陰に刻まれているものや、2000年前頃の朝鮮半島で盛んに造られたお墓(支石墓)の蓋石に刻まれていることがよく知られている。
わが国では、昭和55年に発掘調査が行われた山口市大内「神田山石棺郡(こうだやませっかんぐん)」の箱式石棺墓の墓石に刻まれた盃状穴が最初の発見である。

築山館跡大内義興の顕彰碑

築山館跡石碑「大内氏月見之松記念」

月見松とは大内氏時代以来の名木でしたが、安政3年に燃えてなくなりました。 そののち友津田典が、焼け残った根元部分の、根より三丈上の所を切り取り、それを額の縁とし、月見松の姿を尾張人湟宏に描いてもらい、近藤芳樹が記を添えたものが作られ、現在八坂神社楼門に飾ってあります。

築山館跡桜の木が覆いかぶさる境内

築山館跡伝・市川元教の墓。

毛利元就に仕えた市川経好の子。天正6年、大友氏と結び反乱を企てようとして露見。父により自刃させられます。元教は謡曲采女の山郭公の小鼓が得意だったので、以後山口では采女を謡うことを控えたといいます。

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