大内文化コラム

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大内文化コラム

●大内政弘の和歌から


 くやしくも及ばぬ道の思ひ草
   わかの浦わに ねざしそめけん

  おひのぼる山とはならでことの葉の
   麓の塵と朽ちやはてなむ

 これらは大内政弘の私家集「拾塵和歌集」に載っている歌です(拾塵和歌集の引用は「新編国歌大観第八巻 角川書店」より。政弘の和歌はすべて拾塵和歌集から)。
 これをよめば、政弘が、たしなみや教養といったものでなく、いかに歌詠みにかけていたのかわかります。
 古今和歌集などのいにしえの優れた歌を、自らも詠まんとして歌を詠みかさねてきたけれど、ついにならぶほどの歌を詠むことができなかった。
 その才のなさを認めなければならない苦いおもい。
 なおかつそんな苦いおもいすら歌にしてしまうほど歌からはなれられない自分。
 創作にうちこんだ人しかあじわうことのない気持ちです。
 さて、政弘にはこの拾塵和歌集に収められている歌と、准勅撰連歌集「新撰菟玖波集」に収められている句などが残されています。
 これらをもとに、今回は「故郷」と「都」の言葉にしぼって、話をすすめようとおもいます。
 といいますのは、この言葉にたいする政弘の感覚が、政弘とそれ以前とでは違うものがあり、政弘の言葉は後世の私たちの感覚に近くなっているからです。

  かへらはさくら恨みやもせん
    ふるさとと都をおもえ春の雁

 これは新撰菟玖波集に収められているものです(新撰菟玖波集の引用は「新撰菟玖波集 横山重 風間書房」より。政弘の連歌はすべて新撰菟玖波集から)。
 前句は誰が詠んだものかしれませんが、「(ようやく春が来て桜が花を咲かせようというのに、それも見ずにあなたは帰るというのですか)もし返るならば桜が恨むかもしれませんよ」とあり、これに政弘が「故郷というふうに都をおもいなさい(そうしていつまでもいてください)春の雁よ」と付けたものです。
 この政弘の付句で興味深いのは、都と故郷を一つの句の中に詠みこんでいること、さらに都と故郷を比較していること、しかも句のさいしょに「ふるさとと」というふうに言い切るかたちで詠んでいることから感じとれるように、故郷のほうに寄せる想いが強いことにあります。
 都と故郷を一つの句の中に詠みこんだ歌には次のようなものがあります。

  ふるさととなりにし奈良の都にも
   色はかはらず 花は咲きけり
          (古今集 紀貫之)

 一つの句に「ふるさと」「都」両方あるのは、比較するためにあるのであり、比較するには違いも必要ですけれど共通なものも必要です。この歌では「奈良」という場が共通で、時間が違います。「ふるさと」になった奈良と、都のときの奈良と。
 では、政弘の句では、何が共通かというと、都であれ故郷であれ人が生き住むところであることにかわりはないということであり、何が違うかというと、状況が違うということでしょうか。
 雁が移動するのは冬の故郷には住めないからであり、夏の都には住めないからです。
 雁の意向ではなく、周りの状況が許さないからです。
 それは政弘にも当てはまります。都にいるのは応仁の乱が終わらないからです。
 しかし、当時、都も故郷も住むにかわりないといえば、世の人はちがうと言うでしょう。
 この歌は、古今和歌集に収められている伊勢の詠歌を下敷きにしているとおもいます。

  春霞たつを見すててゆく雁は
   花なき里に住みやならへる

 雁は秋にその故郷から都へ渡ってきて、春に戻っていくとされています。
 歌中の「花なき里」は雁の故郷をさしています。
 春霞がたっているのに、それを見捨てて故郷へ帰って行く雁は、花のない里に住みなれているからだというのが歌の意です。
 春霞は寒気が解けるころに起きる春最初の景物で、霞の向こうには今にも咲かんとする桜が隠されています。
 でも雁は花に見向きもせずに故郷へ帰ります。
 荒涼とした故郷のどこがいいのか、花の都を去るなんて馬鹿じゃないかしらん。
 歌の気持ちをくだけて訳せばこうです。伊勢は都の人です。
 政弘はこの歌を本歌にしつつも、気持ちは逆転させています。
 たとえ美しい花が咲いても故郷に帰れないこの気持ちは慰められない、そんな気持ちされ感じられます。
 ところで、この連歌はどこで詠まれたのでしょうか。
 内容からいってそれは都でしかありえません。
 都の政弘亭では月に一度、連歌の座を設けられていました。
 そして、詠まれた頃は、文明六年から九年のあいだとおもわれます。
 文明九年まで京都に政弘は滞在していましたが、山名宗全と細川勝元が死去した翌年の文明六年から和議に動いており、帰国したがっていました。
 しかし、すぐには西軍の諸将の面子を立てた和議は難しく、こぎつくまでに三年かかっています。
 そういう時期の政弘に対して、連歌の座で誰かが問い掛けたものかもしれません。
 「もし今、単独で和議を結んで他の諸将を見捨てて帰られるならば恨みますよ」
 その返答が「故郷と都をおもえ」で、雁に自分の気持ちをたくしています。
 この句の意には、都を故郷とおもってずっと居つづけたいととれないこともありません。
 なにせ本歌が、故郷より都がいい、といっているのですから。
 しかし政弘にはこういう歌があります。

     深夜帰雁
  帰るさをたれに忍びて深き夜の
   雲路にいそぐ春の雁がね

 引きとめる人をふりきって、雁は帰ってしまうようです。
 ですからここは、居ますけれどもそれは本意でないことをわかってくださいね、ということでしょう。
 もちろん連歌の座のやりとりは私の創造です。
 しかし、帰る雁をみて帰れないわが身のつらさをおもったことにはまちがいないとおもいます。
 政弘にはこういう歌もあります。

    覊旅雁
  ふる里を出でし心はしらねども
   たびねの雁のこゑぞかなしき


 伊勢は、故郷へ帰る気持ちがわからないといっていますが、政弘は故郷を出る気持ちがわからないといっています。
 政弘は都より故郷を強くおもっています。
 故郷を長く離れているからでしょうか。
 もちろんそれもありましょう。
 しかし、後で述べますが、故郷への想いはそれだけではないようです。
 そのまえに、同時代の人は故郷と都をどう詠んでいたのか、並べてみます。

「古郷は木葉ちるより道たえて」
「よもきむくらにあるゝ古郷」
「すゑもつゝかぬ古郷のみち」
「ふる里は野に吹風のやどりにて」
「霜かれて野辺の古郷月寒て」

 これらはみな新撰菟玖波集に収められている句です。
 新撰菟玖波集には故郷を詠みこんだ句が五十四句ありますが、おおむねこのように荒れ果てた情景で詠まれています。
 残りは、

「いつかへりこん古郷の秋」
「へたてゝ恋し古郷のそら」
「ふる郷人よあへるうれしさ」

 これらのように懐かしい想いを詠んでいます。
 が、その故郷ももちろん荒れ果てているといってよいでしょう。
 だから、懐かしさはあっても、そこに住みなおそうとはおもわないことが、故郷の歌より感じられます。
 都人なら地方住まいをやめて早く故郷の都へ帰りたいと詠みましょうが、地方の人が都住まいをやめて故郷へ帰り住もうという歌はおそらくないでしょう。
 しかし政弘は詠みました。
 それだけ当時の山口が充実していたのか、それとも都が荒廃していたのか。
 政弘が都をなんともおもっていなかったというわけではありません。
 拾塵和歌集には、都を詠んだ歌がいくつもあります。
 ほとんどは旅先での都を懐かしむ歌です。
 次にあげるのは「覊中の歌に」という題詠で並べられた歌の全てです。

  かへり見し宮この山の姿さへ
   遠ざかりゆく峰ぞけはしき

  宮こにやうら山しくも帰るらん
   こゆるたかねに むかふしら雲

  ゆきかへる宮この人の面かげは
   猶おとろへぬ 草枕かな

  たび枕いかにととはばかたり出でむ
   宮このつとや涙ならまし

  ゆき暮れてうちぬる市のかりやかた
   都の夢をうる人もがな

  たびなるはわが身ひとつぞ見る夢も
   おもふうつつも都なりけり

  かり枕足もやすめぬたびねかな
   あすの道のみ夢にたどりて

  とはばなや今夜さだかにわれは見つ
   故郷人の夢をいかにと

  草枕日数へぬれば立ちかへる
   ふるさとや又たび心ちせん

  ふる里の見しにもあらず荒れはてば
   旅ねの宿を又や忍ばん

  ゆきなやみ船ぢうらやむかち人も
   おもひや返す沖つなみ風

 京都の町の境であった山さえもう遠くなった。
 あの山をこえていく雲がうらやましくてならない。
 都の土産話をしていると、おもわず涙がうかぶ。
 旅の宿で寝ていると都の夢ばかりみる。
 しかし、うちつづく旅の日々に都の記憶はうすくなっていく。
 そんなある日、故郷に住む人のことが夢にでてきた。
 あともう少しで故郷だ。
 旅を急ごう。

 拾塵和歌集は、延徳三(1491)年ごろに、政弘の命で、英因法師らによって二万余首の中から選ばれたものです。
 「覊中の歌に」の歌のならべかたにはもちろん選者の意図があるでしょうが、編集の妙による創作というわけでもないでしょう。
 都への想いにかきくれていたのが、旅が進み、山口が近づくにつれ、心は故郷への想いに占められていったというのは、政弘の歌の素直な気持ちだったでしょう。
 では覊中以外で、故郷もしくは都を詠んだ歌はどうでしょう。
 まず、故郷では、

  すみ捨てし人の心はしらねども
   見せばやとおもふ秋のふる里

 おそらく都から帰ってきてほどなく詠んだ歌とおもわれます。
 十一年ぶりに帰ってきたら、住んでいた人がどこかへ去っていた。こんなにもすばらしい秋の景色を捨てるなんて。その人に見せてみたい。この素晴らしい秋のふるさとの風景を、という歌で、伊勢が「春の都賛歌」ならばこちらは「秋の故郷賛歌」です。
 「すみ捨て」たのは山口が荒れたからで、そのことは政弘もわかっているけれども、それでも山口を離れた人が許せない。
 応仁の乱後、積極的に町作り領国がためをすすめたのは、このとき味わった気持ちが原因でしょうか。
 また、この歌と、

  かげもをし人に見せばやふる里に
   ひとり深行く浅茅生の月

 この歌、これらを山口の在ではない人がよめば、ふるさと自慢のように感じるのではないでしょうか。 
 といいますのも、「人に見せばや(人に見せたいものだ)」という語句はそれほど使われる言葉ではありませんし、しかもその対象が故郷であるというのは、それまでになかったことでしょう。
 お国自慢というのは各地方で戦国大名が群雄割拠し、それぞれに富国強兵にはげんだあたりからうまれたものだといわれています。
 政弘の歌はそのお国自慢のさきがけといえるものです。
 政弘のころには故郷を人に自慢したくて見せたいとおもう人などいなかったでしょう。
 こういう歌もあります。

    海辺眺望
  宮こにもいかがうつさむ塩がまや
   しほひしほみちかはるながめは
  (都にも如何移さむ塩釜や潮干潮満ち変わる眺めは)

 潮が干いたり満ちたりするたびに変わるこの雄大な塩田風景を、都にうつしたいものだがどうすればいいだろうか、いや、うつしようがないなあ。と、こういう意味の歌です。

    河原左大臣の家に罷りて侍りけるに、塩釜といふ所の様を作りけるを見て詠める
  塩釜にいつか来にけむ朝なぎに
   つりする舟はここに寄らなむ
          (在原業平 続後拾遺集) 

  君まさで煙たえにし塩釜の
   うらさびしくも見えわたるかな
          (紀貫之 古今集)

 これらの歌は、左大臣源融が自分の館の庭に塩釜をつくり、海から塩水を運ばせ、歌枕で有名な陸奥国塩釜の地の景色になぞらえて藻塩の煙を再現して喜んだ故事にもとづいています。
 政弘の歌も、この故事と、故事を詠んだ歌をおもって詠まれていることは明らかです。
「塩釜」は海水を煮詰めて塩をとるための釜ですが、政弘の歌の中では塩釜自体よりも、故事をさしているようにおもいます。
 そればかりでなく、塩田を塩釜ととらえて雄大さをだしている、そんなふうにとれます。
 源融は、藻塩草(海草)に海水をかけて得た鹹水(濃縮した塩水)を釜で煮つめて塩を作ったとされていますが、中世の瀬戸内海では揚浜式塩田が主流でした。
 揚浜式は、「少し高くなったところを粘土で固めて、その上に塩をまき、それに海水をかける。そして海水をかけたその砂を集めて、それにまた海水をかける。そうするとひじょうに濃い鹹水が採れることになります。その鹹水を煮詰めるという方法(「塩の道」宮本常一 講談社学術文庫より)」です。
 また、国指定文化財になっています有光家文書の下関正吉郷入江浜の絵図(鎌倉時代末期作成)に描かれている塩浜は、古式入浜で、干潮にあらわれる干潟の砂をかきあつめて、さらに海水をかけて鹹水を採る方法です。この古式入浜もあることはあるわけです。
 潮の満ち干きで変わる景色ならば、政弘が眺めたのは古式入浜の方のような気がします。
 歌の故事や知識として知っていたけれど実際に塩作りの場を見たら雄大でとても都へ移せない。
 都の館の庭につくられたまがいものよりこっちの方が断然素晴らしい。
 と、地方の風景を賛美していることは明らかです。
 では、山口に戻ってから、政弘は都をどう詠んだのでしょうか。
 都を詠んだ歌をひろいますと、

    立春
  思ひやる都のけふのいかならん
   此山里も春は来にけり

    立秋
  宮こにはまだ夏なれやつくしがた
   西さへけふぞ秋の初風

 都は思いだし、此処は見るという、それぞれつかまえる作業がちがうだけで、これらの歌では都も歌を詠んでいる政弘の場所も等価におもえます。
 また、立春立秋という季節の変わり目に詠んでいるということは、時間の推移を感じるときにつよく都をおもいだすということでしょう。

    文明のみだれに両陣あひわかれ侍りし時、心ならぬさまにて都にありし事をおもひ侍りけるころ、思住事といふことを、
  わきかねつ心にもあらで十とせあまり
   ありし都は夢かうつつか

 この歌からもわかるように、政弘は都を場所というより、もはやもどることのできない思い出の中においています。
 さらに、「みやこびと」を詠みこんだ歌をみてみましょう。

    山平貞藤ともなひて、法泉寺の紅葉見にまかりてよみ侍りける
  宮こ人の名ごりやなれもしたふらん
   帰る山ぢをうづむ紅葉葉

  延徳二(1490)年夏のころ、竹内僧正良鎮安楽寺へまうで給ひけるにたずねおはしまして、おなじき秋 みやこへ帰りのぼらせ給ふとて
  思ひきて今は宮こに帰る山
   たよりしあらばまつと告げこせ

  返し
  はるばるときてもとまらず帰る山
   まつと宮こにいかがつげまし

   離別
  つひにゆく道よりも猶おなじ世の
   わかれかなしき昨日けふかな

 これらに、

     逢友恋昔
  今の世を歎くにはあらずをさまりし
   昔がたりに涙おちけり

 この歌を重ねれば、政弘にとって、都人とは、教養がうりの人でなく、同じ思い出を共有するひと、つまり友であることがわかります。
 都とはその友がいる場所であり、さらにいえばその友だけが、思い出の中でなく現在時において存在している都をあらわす、いやさ都そのものであるといえるのではないでしょうか。
 しかし、山口を訪れる都人の、地方への優越意識は覆いがたかったのでしょうか、新撰菟玖波集に政弘のこういう付句が収められています。

 さそなすかたもかはり行らん
   すみなれてこゑひなひたるみやこ人

 都人であることを鼻にかけていますけど、声は田舎臭くなっていますよ、というからかいの句です。
 これと、同じ新撰菟玖波集に収められている、

  古郷人とわれもなりにき
   友もうし事なかたりそ山のおく 
              (宗砌法師)

 ほんにわたしも田舎人になってしまった。
 昔馴染みの友と逢うのもつらい。
 どうか山奥の私のこの有様を語ってくれるな。
 という意の歌をならべると、都と地方がその勢いを競っているように感じます。
 私が政弘の故郷を詠んだ歌でいちばん好きなのは次の歌です。

     故郷暮秋
  葎とぢて木葉ふりしく故郷を
   道もまよはず帰る秋かな

 「覆い茂っていた葎(むぐら)は枯れて萎み、木の葉はおちて地面に積み重なっている。
 見通しがひろがり、日もよくさすようになった。
 道は木の葉に隠されてわからないが、故郷ゆえにまよわず帰ることができる。
 これが故郷の秋なんだなあ。」

 つたない意訳をしましたが、軽やかな足取りで故郷の秋を楽しむ政弘の微笑がおもい浮かんできませんか。
 和歌に詠まれる葎とは、現代で呼ぶところのカナムグラをさします。
 カナムグラとは蔓性の一年草で、カナムグラに限定せずともそういった蔓草を総称してよんでいたという意見もありますが、とにかく、夏がきてふと目をやると空き地や線路端で葉を入道雲のように生い茂らせた蔓草があることに気づいたら、それを昔は葎とよんでいたのだとおもってよいでしょう。

  八重葎しげれる宿のさびしさに
   人こそ見えね 秋に来にけり
           (恵慶 拾遺集)

  やへむぐら茂れる宿は人もなし
   まばらに月のかげぞすみける
           (前中納言匡房 新古今集)

 ふつう葎はこれらの歌のように、葎が茂る家をしめし、荒廃していて人も訪れてこない寂しい場所と歎くのが定番です。
 しかし政弘は「葎とじて」と詠んだ。
 葎がとじるとは不思議な言い様です。
 朝顔の花がとじる、というような言い方をいまでもしますように、それと同じ使い方でつかったとおもわれます。
 つまり、枯れたという意です。
 枯れた葎を詠んだ和歌はないようです。
 このへんに、王朝人の歌をしっかり学んだうえで、それにとらわれない政弘の独創眼がみてとれます。
 枯れた葎をよんだものを、ようやく俳句にみつけることができました。

  枯れ枯れて嵩のへりたる葎かな   高浜虚子

  静かさや日のさしとほす枯葎    松根東洋城

  あたたかな雨がふるなり枯葎    正岡子規

 いずれも憂愁な気持ちではありません。秋の落ち着いた柔らかな日差しが感じられます。
 政弘は、葎を枯れさせることによって荒れ果てた情景を終わらせ、そればかりでなく、暗に、人が住みだしてもう寂しくない場所であることをいっているのではないでしょうか。
 下句の「道もまよわず」では、

  故郷に帰るかりがねさ夜更けて
   雲路にまよふ声聞ゆなり
        (よみびとしらず 新古今集)

 この歌のように、都から故郷へ帰るとちゅうで迷ってしまった哀れな雁がいますが、政弘のように故郷にもどったものは、もう迷うことはないでしょう。
 「まよう」とは、方向を見失ってどう行っていいのかわからなくなる、思慮分別をなくして自分の行動の指針を見失った状態になるという意(「時代別国語大辞典 室町時代編」三省堂より)です。
 しかし政弘はまよわないと詠んでいます。
 将来のことについて思索にふけりながら散策し、心をきめて、大内館へもどり、領国の行く末を決める政策をおこなう。
 この歌は、その決意のあらわれでもあるのではないでしょうか。
 政弘は、帰国すると、京都滞陣中にゆれた筑前豊前両国を平定し、大内壁書としてまとめられた法令をたくさんだします。
 ことに法令は、応仁の乱後の政弘の時代に大内壁書の八割近くがつくられており、このころに、山口の町が大内氏の都としての機能と機構を整えたと推測されています。
 政弘にとって、故郷と都は、天秤の両皿ではなく、楕円のふたつの焦点のようなものではなかったかとおもいます。
 あちらかこちらかではなく、都(京都に象徴される世界)の限界と、故郷(山口を中心とした大内氏の領国世界)の限界を越えるために、都の良さと故郷山口の良さを焦点に、歴史にしても空間にしてもちがう二つのものをあわせもった一つの楕円面世界を作ろうとしたのではないかと、その活動領域をおもうたびにおもいます。

  唐人の袖もゆたかにうな原や
   はかたの沖にたつかすみかな
  (唐人の袖も豊かに海原や博多の沖に立つ霞かな)

  とはばなやいづくもおなじながめかと
   こまもろこしの秋のゆふ暮
  (問はばなや何処も同じ眺めかと高麗唐土の秋の夕暮)

  もろこしやいづくの峰ぞ松浦がた
   おつる夕日にかかるうき雲
  (唐土や何処の峰ぞ松浦潟落つる夕日にかかる浮雲)

  松浦がたそこともしらぬ唐の 
   山のはつらく月ぞかたぶく
  (松浦潟其処とも知らぬ唐の山の端つらく月ぞ傾く)

  夢よりも千里を絵かく筆の海に
   もろこし近く向ふ窓かな
  (夢よりも千里を描く筆の海に唐土近く向ふ窓かな)

  (わかりやすいように漢字をあててみました。)

 このようにこま(高麗=朝鮮)もろこし(唐土=中国)はつねに意識の中で大きな比重を占めていたでしょう。
 当時は「唐」と「高麗」と、それ以外の「天竺」が全世界でした。「高麗唐土」と歌っているとき、それはいまの「世界」と同意語とおもわれます。政弘の気宇壮大さがかいま見られる歌です。
 また、さいごにあげた歌は、雪舟の絵をみながら詠んだのかとも想像できます。

    神祇歌に
  神をいまあふぐはまれぞ世中の
   うきにつけては身をいのれども

    尺教の歌の中に
  つなぐべきとまりもしらぬ法の船を
    心の水にまかせてぞゆく

 そして世間の人の不信心をつのり、法の道に悩むなど、精神世界も歌っています。
 政弘は金剛般若経を出版したり、大蔵経を朝鮮から入手したりと仏教史に残る活動も行っています。
 ほかには、冒頭にあげた歌でもわかるとおり、いにしえの世への憧れが強くあります。
 政弘の頭にあった世界は、現代の私達からは知るべくもないほどずっと広く深いものだったとおもわれます。
 広く深く、矛盾したものも呑んでいながら、筋のとおったその人生は、政弘の強さとバランス感覚のよさだけでなく、時代の中でなにかを成し遂げんとした意志の堅固なるものが感じられます。
 当時は下剋上の時代です。
 新たな勢力が地響きのようにおこってきています。
 だからといって既存の勢力が時代を変えようと考えなかったわけではないというのが、政弘の歌を知っての感想です。
 次の歌など、わたしには、政弘の一生を象徴したような歌におもえます。

    夢
  あだなれどおどろかぬにぞ世中に
   すむをも夢と定めかねぬる

「あだ」は「化」もしくは「無常」とかかれ、人の身や世の中などが永続せず、はかなく変わるさまをいいます(「時代別国語大辞典 室町時代編」三省堂より)。
 拾塵和歌集には「あだ」という言葉がたくさん出てきます。
 当時の人々の、世に対する一般的な見方です。
 「おどろく」は、夢から覚める、眠りから覚めるの意です。

  世の中は夢かうつつかうつつとも
   夢ともしらずありてなければ

 この古今集のよみびとしらずの歌を筆頭に、世の中を夢とする見方と現(うつつ)とする見方、いずれをとるかというのはよく詠われる題材です。
 さて、政弘はどういう答をだしたのか、それが「夢」の歌です。
 意は、夢は夢から覚めてこそ夢であったとわかるのであって、この世は夢であるとされても、その夢から覚めないかぎり私自身はこの世を夢であると決めつけることはできない。
 こういうことです。
 これと、

  なにごとも夢まぼろしとおもひしる
   身には愁ひも悦びもなし

 この足利義政作と伝えられる歌とくらべればそれだけで、たとえ二人のことを知らなくても、それぞれの人生の違いを察することができます。
 政弘は、この時代の多くの人がなすがままにあきらめた混乱を、いかに再構築させようかと考えて、それを実行した、そういう人であったかとおもいます。
 大名が朝鮮に大蔵経を求めたように、海民が東シナ海を縦横無尽に駆け巡ったように、公家がいにしえの時代に憧れたように、門派が新たな世に憧れたように、足軽がのさばってきたように、守護が没落していったように、伊勢流の作法がうまれたように、雪舟が明へ渡り、しかし独自の画風を築いたように、没落と隆盛と、または相反するもの(比較可能な同一平面上にあり、かつ志向性のちがうもの)が競いあう時代に、大内氏が栄えたのは、その相反するものを焦点とした楕円をおもいえがいて世の中を捉えていたからではないでしょうか。
 事実、都を中心点とする丸い円で世を捉えていた公家や将軍は零落していきました。
 さいごに政弘が「晴後遠山」という題で詠んだ歌を記します。

  見るがうちに千年は過ぎぬうき雲の
   谷よりのぼる峰の松原

 政弘が仰いだ空は、いまの山口の町のうえにもひろがっています。


 

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