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● 雪舟の庭かも?!善生寺庭園

  平成18年、東山のふもとの寺・善生寺の庭の発掘説明会が行われ、室町時代の庭であることが明らかになりました。この庭園は現在、山口県指定名勝となっています。
 また、訪れる人のために案内看板が設置されました。

 以下は説明看板の文章です。

「名勝 善生寺(ぜんしょうじ)庭園(伝雪舟作)  
     庭園の様式:池泉(ちせん)観賞式庭園

 善生寺の境内は、サビエルを大内義隆に引き合わせた、重臣 内藤興盛(おきもり)(1490年〜1554年)の菩提寺西方寺(さいほうじ)があったところです。
 平成17年から18年にかけて発掘調査を行い、庭園が作られた時期は室町時代後期以前に遡ることが判明しました。江戸時代に藩がまとめた「防長風土注進案」には、後庭の泉石は西方寺の余波で、雪舟が作ったと記されています。作庭当時の池泉は現在の約2倍の広さで、山裾の汀(護岸)は緩やかに傾斜していたことが分かりました。また、導水路や排水路の石組も発見されており、作庭当時の観賞位置は庭園の東端(導水路付近)で、西方を向いて庭を観賞したと考えられます。
 慶長9年(1604年)毛利輝元の側室が葬られた後、寛文4年(1664年)周慶寺(しゅうけいじ)と改名され、庭園も改修されました。また、明治の初めに善生寺が移転し、現在に至っています。 

山口市教育委員会 文化財保護課 平成18年10月」

 

 ◎さらに詳しく知りたい人のために

「善生寺庭園

●善生寺の沿革
 善生寺は浄土宗の寺院で、山号は導衆山、本尊は阿弥陀如来である。
 寺伝によると、現在の善生寺のある場所は、大内氏の重臣内藤興盛の菩提寺「西方寺」の故地で、慶長9年(1604年)に毛利輝元の側室を西方寺に葬って後、寛文4年(1664年)萩の周慶寺を移してきた。その後、廃周慶寺の建物境内など全てを譲り受けて、明治初年(1868年)に善生寺が現地に移転してきている。平成16年(2004年)12月まで建っていた旧本堂は元文5年(1740年)毛利宗広によって再建されたもので、昭和6年(1931年)に南西隅の改築が行われている。本堂の変遷とともに池泉が縮小整備され、大正7年、書院の増築をした時に池泉の東部分が大きく埋められ、現在のような不整形の池泉となった。
 本堂・庫裏の南庭(現在の様式は池泉観賞式庭園)は画聖雪舟作庭の伝承がある。
 現在、周慶寺山と称される裏山は、もともと飯ノ山或は飯の岡と呼ばれていた。また飯ノ山を京都の東山に見立て、椹野川を鴨川に見立てて、東山の麓に寺が配されたという。

●作庭手法・特徴(様式=池泉観賞式庭園)   
 本堂・庫裡の裏庭(南庭)となっており、面積は約1,500u。平成16年12月末に本堂が解体され、現在は北側から庭のほぼ全景を見ることが出来る。庭園の南西部に渓谷風の組石があり、ゆったりとした枯流れを形成している。池泉の護岸寄りには巨石がいくつか配され、汀に強弱をもたせている。
 渓谷風の組石の左右にはそれぞれ築山がある。左側は120p高の山形の中心石を頂点に7石が組まれ、庭園構成の主要部を形成している。右側はやや低い位置に石組が組まれている。また東部隅に4つの景石が据わるが、南奥の1石を除き東から3石は根が浅く、南西部や中央部の組み石ともやや手法が異なることから、後世に据えられたと考えられる。 東部分の池尻に架かる自然石橋はこの地方独特のもので、萩地方に見られる「懸石」と呼ばれる手法である。江戸時代初期以降に据えられたものと考えられる。
池泉山裾側には井(せい)泉(せん)石組があり、湧水により、常時池泉に水をたたえている。
 現在、池泉にはコウホネ、及びスイレンが全面に根をはり、四季を通じて趣を醸し出している。周慶寺山の山裾を背景に、作庭当初の余波をみせる静寂で優美な庭である。

●保存管理の状況
 善生寺が管理。現況に於いては良好に管理されている。池泉が細長く地割が不自然なのは、大正7年頃に書院の増築をした時に、池を小さくしたためである。生け垣の後補は、平成17年の調査時に伐採。調査の結果、築山中央部より右半分の意匠は比較的残りがよいが、築山中央部より左側半分は後世(昭和初期以前)の開墾により一部の景石が排除されている。

●発掘調査からの考察
 池泉東端部分の南方にあたる約6m×6mの枯山水部分(低湿地)は池泉の一部であったことが判明した。段落ちしている部分の更に50cm〜1mほど内側に旧池泉岸が埋存している。
 東端の護岸石組付近の池泉堆積土からは16世紀中葉〜後葉の土師器皿(在地系・京都系ともに出土。大内W期にあたる。煤、タールの付着した灯明皿を含む)が多数出土しており、堆積状況から、室町後期には池泉が存在していたことが検証される。また東部隅の平坦部分(先述の4つ景石が据わる部分)には薬師堂や東屋などの小型建造物があったのではないかと推測される。
 東端の護岸と平行して、東部隅の平坦部分で遣水(やりみず)(導水路)を発見した。作庭当時の池泉水源は、導水路による引水と井泉石組みの湧水の両方によるものであったが、16世紀末頃に山からの土砂によって導水路が一気に埋まり、機能しなくなったことが分かった。
 東北端部の護岸は既存建物下に埋存しており、推測で現況より12m程度北にあったと考えられる。

  山口市教育委員会 文化財保護課」

 

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