大内文化コラム

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● 姫山伝説を描く

姫山伝説についての考察(山口大学大学院教育学研究科2回生 梅原望)

第1節 姫山伝説概要

 図像学を元に山口大学周辺の民間伝説である「姫山伝説」について考察する。姫山伝説にはこれまでには図像が存在せず、また、テキストも様々なバリエーションが存在し、決定的なものは存在しない。いわば、未蒐集の物語である。この姫山伝説とキリスト教の主だった聖女伝説との類似点を探り、キリスト教図像学を参考に姫山伝説の図像化を試みることを本章の目的とする。
 姫山伝説の代表的な物語は以下のとおりである。

《概要》
 むかし、山口の城下町にたいそう美しい長者の娘がおり、名前をお万といった。その娘は顔かたちばかりでなく、心も優しい娘であった。
 お万 どこいきゃる 紅かねつけて
 麻の児しぼりの だらりの帯で
 おんば絵日傘 くるくるまわし
 誰に見しょやら ふたつのえくぼ
 その美しさははやり歌に歌われるほどだった。
 ある日のこと、たまたまお万の姿を町で見たお殿様が、長者を城へ呼びつけ、お万を御殿に仕えさせろといってきた。たとえ長者でも殿様にそむくわけにはいかない。しかしお万にはそろそろ一緒にさせてやりたいと思っていた旅狂言師の若者がいた。答えに困った長者は、娘と相談しなければ決められぬといい、いったん家へ帰る。お万にこのことを話すと、お万の顔は真っ青になって、ぶるぶると震えだし、いとしい方がいるから死んでも御殿へは行きたくないと泣き出した。しかし、殿様に断りに行った長者はそれきり家には戻ってこなかった。それから何日かして殿様の家来がどやどやと長者の家へやって来た。お万は縄をかけられ、御殿へ連れて行かれた。そこには縄で縛られた長者がいた。どうしてもいうことを聞かないお万に殿様は、長者を棒で打ちつけて迫った。そのうちに長者は死んだ。殿様の怒りはそれだけではおさまらず、今度はお万を城の裏の姫山につれて行かせ、頂上にある古井戸に押し込めた。殿様は毎日古井戸の中へ数十匹の蛇を投げ込み、「蛇攻め」にあわせたのである。殿様は時々やってきては井戸の中をのぞいた。
 それからまもなくお万は井戸の中で死んだ。死ぬ間際にお万は「わたしは美しい姿に生まれてしまったために幸せになれなかった。後の世の女の人がこんな苦しみにあわないよう、この山から見える土地には美人が生まれないように」というものであったという。

 この姫山伝説は、いつどの時代にどのように生まれたのか、また、お万という娘が存在していたかということについて、詳しいことはわかっていない。しかし、この伝説の元になったと考えられている史実は存在する。

《歴史的史実》
 この伝説に似た史実として、二の丸様誘拐事件がある。
 二の丸様は児玉三郎右衛門元良の娘として広島の城下に生まれた。小さい頃から評判の美人で、毛利輝元もひそかに思いを寄せていた。やがて元良の娘は野上庄の城主杉治郎左衛門尉元相の息、小次郎元宣のもとに嫁いだ。輝元は娘への思いを断ち切ることができず、杉元宣が筑前立花城へ出陣中の留守を狙って、腹心の部下佐世石見守元嘉、杉山土佐などに命じて拉致させている。これを知った元宣は九州陣から引き返すところを、途中で待ち受けていた輝元の刺客のために徳山沖の大島の船隠しで暗殺された。
 二の丸様は輝元との間に三人の子をなす。長男は萩藩初代藩主秀就、長女は岩国の吉川広正室、次男が徳山藩初代藩主就隆である。関が原での敗戦後、萩に築城後も二の丸様は山口の覚皇寺に住み、慶長九年(1604)八月一日、三十二歳の生涯を終えた。遺骸は古熊の西方寺に葬られた。芳名にちなみ周慶寺と寺号を改め、現在はさらに善生寺と改めている。善生寺には大内氏の重臣内藤興盛の墓と絵像が残されている。二の丸様の墓は香山園に移された。
 城山としての姫山城は内藤氏の属城といわれ、最後は宍道大炊助隆慶がこの城を守っていたが、毛利元就の進撃にあい、あえなく降伏した。『防長風土注進案』には「山頂に石垣馬つる井も存する」とあるが確認はできない。しかし、その一部で石組みがわずかに見られるところがある。
 姫山城は問田川・仁保川・椹野側を外郭の防衛線として、峻険な山容を利用して構築した山城である。山頂には尾根でつながるふたつの峰があり、その山頂にはこの山城の中心をなす郭がある。地理的には防府方面から山口へ侵入する者をさえぎる役割と、秋穂浦・陶峠から侵入する者をさえぎる要地であった。〈樹下明紀〉

 実際の史実では、物語の中心地は姫山ではなくもっと東の岩国・周南から広島にかけてである。また、二の丸様は病気で亡くなられており、元宣の死後はあきらめたように輝元を受け入れ、3人の子をなしている。 このように物語と大きく異なる部分も多く、蛇攻めの話は輝元に加担した乳母が拷問死した話などほかの話と混ざったのではないかという説もある。この史実は実際には城の大スキャンダルで、他言無用の極秘の話であったのだろう。実際に、妻を誘拐された元宣は、二の丸を取り返しに広島の城へ乗り込むのではなく、この不貞を将軍に上告するために都に向かう途中に徳山沖で暗殺されたとしている。この話は、二の丸様を看取った寺のものやその周囲のものが、説法として名前や物語を変え、町のものに語って聞かせたものが長い年月の中で変化していったものではないかと考えられる。二の丸様を看取った寺だという善生寺は山口市内にある。スキャンダルな話ゆえに名を伏せて語られたであろう「二の丸伝説」は、いつしかその土地の近郊にあった、姫山城での話として変化していったのではないだろうか。また、姫山城城主内藤興盛は敬虔なキリスト教徒であった。そのため、キリスト教の物語は城下町にも広まっていたのではないかと考えられ、「二の丸伝説」はその物語と少しずつ融合し、「姫山伝説」と姿を変えていったのではないかと推測される。また、そうでなくとも姫山伝説と聖女伝説の類似は、時代、場所、民族、文化も超えて成立したものであり、それだけに多くの人に好まれる普遍的なストーリー展開であるということができる。

 では、姫山伝説と聖女伝説の類似点とはどのようなものか、次の説で詳しく述べていきたい。

  第2節 姫山伝説とキリスト教聖女の類似点

姫山伝説のストーリーは、以下のように要約することができる。

@ 美しい姫の存在
A それを見た時の権力者からの求婚
B 求婚の拒否(許婚の存在)
C 権力者からの拷問(父親の鞭打ち、姫の井戸の中での蛇攻め)
D 今際の呪い(姫山の麓で生まれる子どもに美人は生まれない)

 このストーリーの展開は、前章で述べた何人かの聖女と共通項を見出すことができる。初期キリスト教時代の聖女の伝説はみな驚くほどよく似ているのだ。彼女たちは型にはめたように、異教徒に性的暴力や性的拷問を受け、また、美しい処女のままで殉教するという運命を背負っている。彼女たちのストーリーを要約すると以下のとおりになる。

@ その土地で評判の美女
A 時の権力者(異教徒)からの求婚
B 求婚の拒否(宗教・夫への貞節のため)
C 激しい性的迫害・拷問
D 数々の奇跡、殉教

 このようにしてみてみると、D以外は姫山の伝説と合致しているのではないだろうか。Dにおいても、姫の呪い(多くの場合、呪いと解釈されているのだが)を「後世の子が、不幸に見舞われませんように」という願いだったと解釈すれば、聖女により近づいたものになる。若桑みどりは著書で、

これらの多くの女性たちが聖化されるために、いかに彼女らの肉体が冒涜されなければならず、究極の侮辱にあわなければならなかったかをこれらの聖人伝は教えている。マリナ・ワーナーは、迫害時代の聖女の殉教の最大原因は、改宗を拒むこと以上に、その純潔を守ったことからきていると指摘している。実際、紀元後六四年から三一三年のあいだに十万人以上の人間が殉教し、そのなかに非常に多くの女性がいた。ワーナーは、これらのうちで聖女となった女性のほとんど全員処女で、また『黄金伝説』のすべての聖女が美女でさえあったということに注目している

と述べている。このことを参考にすると、お万は聖女たる条件を満たしているように感じられる。
 お万と聖女たちの決定的な違いは、「神」の存在の有無である。「神」とは聖女伝説ではもちろんイエス・キリストのことであるが、絶対の「理念」のことである。この理念を強化するためにキリスト教は様々な教義を決定し、それによって図像が決定されていった。描くべき「教義」にすべてが収斂していくのである。姫山伝説にはそのような「理念」が存在していない。そのためこの聖女と姫山に類似点を求める考察は、いわばキリスト教イコノグラフィーのパロディとしての解釈である。
 また、お万は解釈の方法によっては、自分を殺した殿様にたいして恨みを抱き、その城下で生まれてくる女児に対して呪いをかけた「宿命の女」としての姿も見えてくる。日本で言うところの「悪霊」や「鬼女」になってしまったのである。その姿もまた、殉教した聖女たちと重なる部分が見えてくる。キリスト教から見れば聖女である女たちも、異教徒から見れば「魔女」となるのだ。それは、ジャンヌ・ダルクの例を見てもわかる。彼女たちが行った数々の奇跡は、異教徒から見ればなんとも恐ろしい姿に見えたであろう。ただ、彼女たちには「神」という確固たる「理念」があったため、その聖化は裏付けられている。姫山のお万には、それはない。

 物語は口伝から文伝に伝達方法が移行するとき、それを収集し、まとめたものの名前が冠せられる場合がある。基が同じであると考えられる『サンドリヨン』『灰かぶり』『シンデレラ』がそれぞれ『グリム童話』『ペロー童話集』など区別されるのは、単に、「グリムが採集したシンデレラの話と、ペローが採集したシンデレラの話」というように理解できる。同じように、異教のものであるルクレティアも、「聖である」と認めたものがキリスト教だったからキリスト教の聖女に名を連ねることになったのであろう。とすれば、姫山のお万もキリスト教に収集されれば聖女として認められる可能性があるのではないだろうか。

  第3節 姫山伝説の図像化 ドローイング展「新・姫山伝説――Beauty is a sin――」

 これは、山口市に伝わる民間伝承『姫山伝説』をベースに思い浮かぶイマジネーションを作品にできないかというコンセプトのもと、企画された展覧会(※「新姫山伝説」(2010年11月6日記事参照)で、わたしは伝説に登場するお姫様を、キリスト教徒に見立てての図像化を目指したものである。キリスト教聖人・聖女の図像は、多少の例外は存在するが、@物語の中で描かれたもの、とA持物(アトリビュート)によって表現されたものそしてBその複合型に大きく分けることができる。最初は、多くの聖女の肖像画のように、姫山の姫も持物を考えて表現しようと考えていたが、今回は最高位の聖女である聖母マリアとの対比によって表現した。聖母マリアは、聖女の中でも特別な存在である。すべての女性はエヴァの子孫であり、原罪から逃れられないとされている中、彼女一人が原罪を逃れられた唯一の存在である。彼女は母であり処女でありすべてのキリスト教徒(男性の、と置き換えることもできるかもしれない)の理想の女性像である。彼女はエヴァが神から与えられた原罪(産みの苦しみ)を持たないとされている。したがって月経もなく、また処女であるため性交の経験もない。ただイエスのための母であり、清らかな処女として象徴的な存在である。わたしはこれまでジェンダーやフェミニズムの観点からも作品を制作してきたが、聖母マリアは果たして女性ということができるのだろうかという疑問を持っていた。そこで、その際たる表現である『無原罪の御宿り』をモチーフに、最高位の聖女であるが女性性に欠けるマリアと聖女ではないが聖女のような人生を送り恋のために死んだ俗世的なお万という対比で表現することにした。また、キリスト教の文脈では原罪をそそのかしたサタンとして描かれる蛇によってお万が死んでいることもマリアのプロトタイプであるエヴァと重なるという解釈ができるのではないかと考えた。
 そこで、まず無原罪の図像としてスルバランの『無原罪の御宿り』を元のモチーフとしてあげた。職人画家としての意識が高かったスルバランの作品は、同じ『無原罪』の画家であるムリーリョなどの絵画よりも画家独自の解釈が少なく、教会が定めた教義に忠実な作品が多い。中でも傑作と名高いこの作品を選択し、これをわたしの中の『無原罪』のフォーマットと位置づける。


* 参考
「無原罪の御宿り」の図像学
 キリスト教は、コンスタンティヌス帝がキリスト教を初めて国教化してから、日本においての『日本書紀』のようにキリスト教は民衆を治める手段として、政治の方法として用いられるようになる。さまざまな土着信仰とキリスト教の伝説などを併せ、祭日として取り込むなど、国土の統一の道具としてキリスト教が見られるようになってくる。また、これまでの地母神信仰がそうであったように、旧約・新約聖書は家父長制維持のための装置として解釈がなされ、聖女伝説が生まれ、また、それに基づいた多くの作品が生まれたのである。
 その最たるものが聖母マリア信仰である。聖女の中の聖女と謳われ、聖書など読んだことのない人でも知っているほど有名な聖母マリアについての記述は、初期の新約聖書である『マタイによる福音書』『マルコによる福音書』などには実はそんなに多くはない。聖母マリアは、受胎告知についての短い記述があった後は、キリスト磔刑まで姿を見せないのである。聖母マリアについての伝説の多くは、『ルカによる福音書』や『外典』の福音書によって詳しく見ることができる。そこには、聖母マリアが生まれる前の、聖母アンナの処女懐胎、幼少時代のマリアなどの物語から、妊娠中の聖母マリアのエリザベツ訪問、皇帝の命令によって戸籍調査のためのベツレヘムへの旅など、イエス・キリストが生まれる前の物語や、生まれた後のイエスとマリアやヨセフの生活の場面などが描かれている。
 聖母マリアについては、434年のエペソス公会議においてキリストを人間だとするネストリウス派が異端とされてから、ますますマリアに抽象的で観念的な母性が求められるようになり、マリアの処女性が強調されるようになる。1431~39年のバーゼル公会議においてマリアの『無原罪』が初めてはっきり宣言され、1854年にカトリック教会において教皇ピウス九世(在位1846~78)の大勅書によって、『無原罪の御宿り』が正式に教義として認められてから、17世紀のスペイン画家たちを中心に爆発的に『無原罪』の図像が増えることになる。『無原罪の御宿り』とは、聖母マリアの処女性・神性を大きくとり挙げた図式で、マリアは創世記で禁断の果実を食べたエヴァが神から与えられた罰である原罪、すなわち生みの苦しみとアダム(男性)への従属をすべて回避しているという考えである。マリアは穢れなき処女であり、また理想の母としてしか存在しないものとなった。そのことを表す『無原罪の御宿り』にはさまざまな表現方法がある。当時、いかにして原罪が「ない」ことを描くことで表現するかという問題は、画家たちの中で大きな課題であった。15世紀末から16世紀初頭には【議論型】と呼ばれる無原罪が現れた。これは、銘文によって無原罪を説明するもので、リテラシーの低い民衆には伝わりづらいものであった。【シンボル型】は16世紀に現れた形で、無原罪を表す「ダビデのやぐら」「エッサイの若枝」「湧き水の井戸」「高い杉」「染みなき鏡」「神の都市」「バラの株」「谷のユリの花」「閉じられた庭」「海の星」「天の門」「堂々たるオリーブ」「庭の泉」など、さまざまなアレゴリーがにぎやかにマリアの周りを飾るものである。【出会い型】はマリア自身が無原罪であることを示すもので、アンナとヨアキム(マリアの両親)の黄金の門での再開(アンナの無原罪の御宿り)にマリアが登場するものやエッサイの木(イエスの家系図)のもとづくものなどがある。【アレゴリー型】はヴァザーリの作品(1540~41)に代表される黙示録の記述に基づくもので、太陽を身にまとう女として描かれている。ほかに、ジロラモ・ベドーリの作品などがある。17世紀に現れた【バロック型】は美しいマリアに焦点を当てたもので、【シンボル型】と【アレゴリー型】を併せたような特徴を持つ。今日、わたしたちが多く思い描く「無原罪の御宿り」像はこの姿であろうと思われるが、図像は、三日月に乗り、青いマント、両手を合わせ星の冠をしている。周囲には無数の天使(ケルビム)が飛んでおり、マリアは原罪の象徴である蛇を踏んでいることもある。マリアの周囲は黄金調でまとめられ、これが「太陽を身にまとう」図像として表現されている。その周囲に【シンボル型】の中のいくつかのシンボルが描かれていることもある。わたしが取り上げたスルバランの『無原罪の御宿り』もこのバロック型だということができる。



 ◎下地作り
今回はドローイング展なので、あまり大きな作品は作らず、B3パネルに布を張りキャンバスとした。また、できるだけフラットな面を作るために、ローラーで下地の白、その上にシルバーのジェッソを重ね、更に白でマチエールを作り、下地とする。『無原罪』の図像は通常『黄金調』と呼ばれる黄金の雲(太陽を意味する)にかこまれた背景で描かれるが、今回は下絵の関係でマリアの純潔を現す白のドレスが描かれないためにその代用として全体を白とシルバーにすることにした。

 ◎下絵
まず、マリアをどのように描くかを考え、それの反転バージョンとしてお万を描く。今回は、女性性と処女性に焦点を当てているので、『無原罪』の持物の中から、マリアの白いドレスに青いマントという服装と、月経を象徴する踏まれている月を選択し、できるだけ他のモチーフは排除するようにした。また、マリア自身もできるだけ要素を落として、普通は描かれることのない足だけを描くこととする。聖母の足はそこまで強調して描かれることはまずない。しかし、他の絵画、特に神話を主題にした絵画において、相手の男性を受け入れているかは足が開かれているかどうかで語られることが多い。そのため、足はもっとも性的な意味合いが多いのではないかと考えたため、また、今回はマリアの祈りは主題としていないため、手ではなく足のみを描くこととする。また、個人を描くのではなく観念を表現したいため、顔も描かない。 次に、お万の図像について考察する。この作品は、お万の人物がどのような美人だったのかを表すことが目的ではないため、観念的に無原罪と反対の図像で表現することにする。構図は、お万は井戸に落とされたことから、さかさまに落ちていく足の図で表す。マリアの場合月になっていたところが井戸の入り口の穴ということになる。また、井戸の中から見えるのは天ばかりなので、月を見上げる構図にもなるのだ。また、月から転げ落ちる構図にもなり、月を踏みつけることによって原罪の克服を表現したマリアと、月から落ちることによって、月経(原罪)に支配されたお万(女性)という対立構造にもなる。また、自由落下で落ちていくために開かれた足も、マリアの閉じた足(処女性)と対立する。(文献を読む限り、お万も処女の可能性が高いが、「一般の女性」全体の象徴として図像化する)


 ◎着彩
色についても対立の関係を作りたい。下地は同様のシルバーの下地を用意したが、マリアの青のマントに対してお万には赤の着物を着せる。赤い着物というのは日本ではあでやかな晴れ着を表すことが多く、既婚女性が着ることは少ない。よって、まだ成人前の生娘、または遊女などをイメージしやすい色だといえる。赤は、マリアやイエスの服にも用いられることが多いように愛や純潔を表す色だとされている一方で、日本においての遊女のように、娼婦とみなされているマグダラのマリアの色でもある。この場面によって変わる両義性が赤という色の特徴であるといえる。また、色の特性自体も進出色と後退色、暖色と寒色などのように赤と青は対立関係にある。 着彩方法はタッチなどはできるだけ押さえ、色の印象のみを残すことでできるだけ要素を省きたかったので、今回は色紙を貼り付けるという方法をとることにした。アクリル絵具による着彩はマリアとお万の足のみである。

 ◎完成

「AVE MA…(祈るとき)」

「AVA MA…(願うとき)」


  第4節 まとめ

 姫山伝説に興味を持ったのは、若桑みどり女史の著作『象徴のなかの女性像』を読んだことがきっかけである。もともと、姫山伝説は山口大学周辺の民話ということでなんとなく概要は知っていたのだが、この本の中で、多くのキリスト教聖女の殉教物語を知り、また、聖女というものの曖昧さや、キリスト教でないが西洋の人々に長く親しまれているルクレティアの物語を知り、それはすぐに姫山伝説のお姫様を結びつけた。ルクレティアとは、異教の女性で黄金伝説には記載はないが、聖女としてキリスト教の文脈で語られることが多い。彼女は、夫がいるにもかかわらず権力者に強姦され、自らの身の潔白を証明するために父親や夫とその友人たちの前で証言をし、仇を討つことを誓わせて持っていた小刀で自殺をした女性である。他の聖女と同様にルクレティアもまた貞節を守ろうとし、しかもその肉体を冒?され、それが原因で生命を失ったため、ルクレティアは聖女としてキリスト教徒に受け入れられやすかった。また、ルクレティアの物語自体の絵画のほかにも偶像として他の主題に組み込まれるなど、「美徳」「貞節」のイコンとしても多く図像化されている。
 キリスト教の聖女伝説はルクレティアの例も含めて、キリスト教徒の女性に妻として、母として、娘として、そしてキリスト教徒として、「こうあるべき」と示した見本のようなものである。お万の伝説も、きっとそのような内容で語られたのではないかと考えられる。その内容は、「美人でなくても幸せになれる」かもしれないし「権力に屈せずに自己の純潔を、死を選んででも守ることは徳の高いこと」だったかもしれない。少なくとも、「自分の色恋を優先し、権力に従わなければ死ぬ目にあう」からいうことを聞いていた方がよいという内容は『姫山伝説』からは読み取ることはできない。その意味においても、この二つの伝説はとても近い関係にあるといえ、時代と場所の超越性から、人類普遍の物語であるといえる。
 そしてそれは、若桑みどりの文脈から語るなら、家父長制の社会において、男性が女性に「こうあるべきだ」と語ったものであるといえる。男性中心の社会の中において女性の聖性を証明するためには、彼女らの肉体は冒涜され、究極の侮辱にあわなければならなかった。またさらに、ほとんどすべての聖女が処女であった。キリスト教が女性の純潔を至上の美徳として教えたからである。



                     「無原罪」(梅原望画)

※2010年度卒業・修了制作展より

 

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