大内文化について

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大内氏概略

第3回 高嶺城跡

史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡)
高嶺城跡
昭和三十四年十一月二十七日国指定

高嶺城は、大内氏最後の当主大内義長が毛利氏の侵攻に備えて弘治三年(一五五七)に築いた城です。同年、義長は形勢が不利となり長門国(下関方面)に逃れましたが、四月、長府の長福寺(現在の功山寺)で自刃しました。

義長が去った後、毛利氏は城の改修をし、市川経好を城番として置きました。永禄十二年(一五六九)に大内輝弘が山口に攻め入った際に、毛利勢はこの城の守りを固めて寄せ付けなかったといわれています。

元和元年(一六一五)、徳川幕府から一国一城令が出されたため、毛利氏は萩指月山城を残し、山口高嶺城、長府串崎城、岩国横山城を破却することとしました。寛永十五年(一六三八)高嶺城は廃城となりました。

高嶺城跡のある鴻ノ峰は標高三三八米の丘陵です。城跡は頂上の主郭を中心に、四方に伸びる尾根に曲輪群が広がっています。主郭やその周囲の曲輪には石垣が巡らされ、礎石や瓦片が発見されています。

なお、史跡大内氏遺跡は館跡・築山跡・高嶺城跡・凌雲寺跡の四遺跡で構成されています。
注意事項
一 現在残っている本丸、その他各所の石垣をこわさないこと
二 指定区域内を発掘したり、遺物を持ち帰らないこと
三 指定区域内では火気に十分注意のこと
四 指定区域内の樹木をいためないこと
五 その他城の遺構をこわさないこと

管理団体 山口市
平成十七年三月建山口市
(頂上部に設置された案内看板より)


テレビ塔下の郭

頂上部への道

高嶺城頂上部

頂上部を囲む石垣

頂上部横にある井戸

頂上部

車であがれる道の終点にあるテレビ塔のわきには、一昔前の案内看板があります。こちらも全文を引用します。

史跡 大内氏遺跡
高嶺城跡
昭和三十四年十一月二十七日文化財保護法により指定
大内氏はその全盛時代他にみられるような城郭は設けなかったといわれている。 大内氏最後の義長は弘治二年(一五五六)の春毛利氏の来襲に備えて標高三三八米のこの鴻峯に築城をした。弘治三年三月毛利元就が来攻のとき義長はこの城に拠ったが、ついに守り難きを察して長門国勝山にのがれ四月三日長福寺で自刃して果てた。 この城は高嶺城と呼び、高嶺が又高峯、鴻峰とも書かれ岳山ともいった。急峻な崖をめぐらした独立した丘陵の稜線上に階段状に郭(くるわ)を連ねている。

最頂部の郭は石垣をめぐらしており、一つの山城として典型的なものである。

大内氏滅亡後、山口は毛利氏の手中に入り城番をおいてこの城を守った。ところが元和元年(一六一五)六月幕府は一国一城令を発した。これにより毛利氏は萩指月山城を残し、山口高嶺城、長府串崎城、岩国横山城を破却することとなり、寛永十五年(一六三八)に高嶺城は廃された。現在最頂部にはこの城の主要部分である郭の遺構が残っているが、尾根の平坦部にも郭の跡があり、また石垣、井戸も残存している。

最頂部の郭からは大内菱の紋のある棟瓦も出土している。

注意事項
一 現在残っている郭、その他各所の石垣をこわさないこと
二 指定区域内を発掘したり遺物を持ち帰らないこと
三 指定区域内では火気に充分注意のこと
四 指定区域内の樹木をいためないこと
五 その他城の遺構をこわさないこと

管理団体 山口市
昭和四十七年 月建 山口市


地形図

高嶺城から亀山を見下ろす

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