大内氏概略

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大内文化について

大内氏の出自

大内氏の出自は、一般には百済国聖明王子琳聖太子が、推古天皇の十九年、周防国、佐波郡多々良の浜に着岸し、摂津国、荒陵(四天王寺)に上って、聖徳太子に謁し、周防国大内県を賜い、その地へ下向し、ここを本拠として多々良を氏とし、子孫が相承けついだとされている。

平安・鎌倉時代の大内氏

○ 盛房

大内氏の正統が防長史上にあらわれてくるのは大内盛房である。盛房は多々良氏十六代の当主である。その一族近親共に周防の国庁で政務に当たっていた。この盛房のとき周防権介に任じ、これから本国の介あるいは権介を世襲して大内氏と称するに至った。

この頃多々良盛保、同弘盛、同忠遠と共に何かの事情により関東に流罪に処された。多分反平氏の陰謀に加わったことの露顕によってのことであろう。しかし、治承元年(1177)に諸国の流人に恩赦のことがあったとき、多々良一族も本国に召還されている。

この盛房ははじめて大内を氏とした。

○ 弘盛

盛房の子は弘盛で、周防権介として周防在庁で重きをなしていた。

権介とは中央で任命する正規の国司ではなく、制度上では国司や目代の下位にあたるが、在国司の権能を以て国政を処断し、国務管理や目代を凌ぐ程の実勢力を有して、在庁官人の最優先にあった。

○ 満盛・弘成・弘貞・弘家

その後源平争乱の世になると、弘盛はその子満盛と源氏方に属し、元暦元年(1184)には平家追討の軍功によって、長門国一箇所(未詳)の所領を賞賜せられた。

満盛は建永元年(1206)に山口白石の地に、宝珠山端雲寺を創建したと伝えられている。後年大内氏の山口移鎮に対して、すでにこの頃から山口盆地が着眼されていたことがうかがわれる。

満盛の後は弘成、その子は弘貞である。弘貞の時代に両度にわたる元寇があり、大内氏も一族をあげてこれに参加したようである。弘貞の弟弘房はその大勝を京都に注進したりしている。弘貞の子弘家は矢田太郎と称し、世襲して周防権介となった。

○ 重弘

次の重弘も権介で大内介を称し、六波羅の評定衆であった。周防に於いては在庁官人としていよいよ勢をはり国司と拮抗するほどの勢力があり、東大寺領としての周防国司の国務と激しく対立していた。重弘は元応元年(1320)三月六日に死歿し、御堀の乗福寺に葬られた。嫡子は弘幸であるが、幼年のため実権は重弘の弟長弘がにぎっていた。

鎌倉時代の大内氏はいよいよその勢力を増大して、領地も在来の所領の外に国衙の領たるべき土地を蚕食していった。「大内介地行所領」と題する年代不詳の東大寺文書には、周防の国の内十五ヶ所の地域があげてあるが、この中に吉敷郡内の矢田令、宇野令、大内村、宮野の地などがある。これらは現在の山口の地で、鎌倉時代からすでに山口が大内氏直接の治下にあったことが確認される。

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