大内文化について

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大内氏概略

大内氏の山口移鎮

○ 厚東氏との抗争

大内氏の実権を回復した弘世は、周防国内を平定すると共に、正平十年(1355年)には兵を長門に出して、北朝方の守護厚東義武を攻めた。

厚東氏は武実、武村、武道、義武と相継いで北朝方の長門守護に補せられた長門国守護に補せられた長門国第一の豪族であったが、弘世の追撃に抗いしきれず、正平十三年(1358)正月に、代々の根拠地であった厚狭郡霜降山城をすてて、豊前国に逃れた。その後義武は機をうかがい、長門に帰って国府四天王寺山城に拠って回復をはかったが、弘世の反撃にあった。これより、弘世は南朝方の長門守護職に補せられ、長門国府に入部して、防長両国の実権を握るに至った。

大内氏はここにいよいよ繁栄の基礎を強固にしたのである。

○ 弘世の山口移鎮

大内氏はこの頃まで周防国衙に程近い大内村に本拠を置いていたが、弘世の時代になると単に国衙のみの連絡を考えるより裏日本側の長門や石見への進出が問題となったので、その要衝に当る、山口の地に本拠を移すに至った。

弘世の山口移鎮は果たして何年のことであったか、これを確証する当時の資料はないが、現在山口図書館に蔵されている山口古図 ―これは江戸時代の製作で大内氏時代の山口の状態を復元したものをいう― に「延文五年(正平十五年・1360年)山口は京都に似て、四神相応の地に叶っているので、範を京都にとって町割をした」と記してあることにより、一応その頃であったろうと考える外はない。この年は弘世が長門守護になって防長の実権を握った直後である。

弘世が守護所を置いた地は、宇野令の東方で今の竜福寺の地域である。ここに宏大な衙門を建て、旧慣に従いまわりに堀をほり、土居をめぐらした。そしてこれを中心として一ノ坂川をはさんで、後河原から中河原にかけて諸臣の住宅地とした。衙門の門前は大殿大路と唱え他の多くを小路と称した。

○ 弘世の武家方帰順

正平十八年(1363)弘世は、九州探題斯波氏経の斡旋により、これまで領知する所の防長両国を賜るならば武家方に属してもよいとの意向を幕府に申し入れたので、将軍足利義詮は大いに喜び、周防守護は勿論のこと、長門守護としては厚東氏がいるにもかかわらず、実権を失した厚東氏を見すてて、弘世の希望通りに長門守護をも与えた。

翌年弘世は豊前に出軍し、南朝の名和、菊地、厚東の軍と戦ったが、敗れて和を乞いかろうじて山口に帰った。しかし程なく上京して将軍義詮に謁し、その年将軍から石見守護職に補せられた。

正平二十一年(1366年)弘世は薙髪して道階と号したが、この年七月、兵を率いて石見国に入り諸城を陥入れて平定し、更に転じて安芸の諸城を討ち、二十三年に山口に還って来た。健徳元年(1370年)三月にはかねて造営を行っていた長府の住吉神社が竣工したので、その還宮式に参詣した。この本殿は現存していて、九間社流造の壮厳宏大な形式は特異な神社建築として国宝に指定されている。

同年日本に禁寇を求めて来朝した明使趙秩等を山口に招じて優遇した。趙秩は山口に滞留中「山口十境之詩」をつくったといわれている。

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