大内文化について

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大内氏概略

大内氏の中央進出

○ 義弘の上京

弘世の死後家督は嫡男の義弘が継いだ。義弘は若い頃九州探題今川貞世に従って九州に出陣し、足利氏と結んで発展し、防・長・石三国守護の外、安芸に兵を出してこれを服し、更に豊前においても有力な地盤をきづいた。

元中六年(1389)将軍足利義満が厳島に参詣し、さらに九州四国の海岸地方を巡視しようとして、周防に来たのを歓待し、これに従って京都に入った。元中八年(1391)山名氏清が足利氏に反し京都を犯したので、将軍は堀川に陣し、軍を分かって内野と東寺とに配置して逆襲に出た。この時義弘は東寺軍の先鋒となり、冷泉宮に出て勇戦し、はなはだ苦闘して敵の驍将修理亮を斬った。氏清は一色詮範を斬られ事は平らいだ。

将軍義満は義弘の功を賞して山名氏の旧領和泉、紀伊を与えて其の守護職に補した。よって義弘は防・長・豊・石と合わせて六ヶ国の守護職となったのである。

○ 南北朝和睦の周旋

明徳三年(元中九年 1392)義弘は将軍の命をうけ、六角満高と共に南北両朝の和睦の周旋をした。ここにおいて五十余年間の南北朝の対立は解消されたので義弘はこれを祝する意味もふくめ、将軍義満父子以下諸大名を堺に迎えて、犬追物を行った。

応永二年(1395)義弘は剃髪して有繁と号した。同三年には今川貞世に代って九州探題に補せられた。四年、九州の少弐・菊池の軍が懐良親王の子良宗王を奉じて肥後の八代に拠ったので、義弘は弟満弘および盛見を九州に下らせて、大友氏と軍をあわせ、九州を平定した。

義弘は中央で勢力を得る一方、朝鮮とも大いに交易して強大な富力を有し、正に天下無敵の観があった。義弘はその性驍勇絶倫、よく西陬から出て中原に活躍したが、また一面文学を好み、和歌・連歌に巧みであった。

更に崇仏の念もあつく、石屏子介をまねいて香積寺を創建し、また慶屋定紹をして小鯖に禅昌寺を創立した。なお滝の法泉寺も義弘の創建といわれている。

○ 応永の乱・義弘の死

応永六年(1399)六月、義弘は京都から山口に還ったが、十月弟盛見を留守とし、弟弘茂を率いて東上し、泉州堺に至った。

一方将軍義満は、大内の勢力があまりにも増大するのを恐れて、これを除こうとしたので、義弘は意を決して謀反をおこし、堺の城に拠って幕軍に対した。堺の地は大内氏の官僚以来非法の政治をなさなかったため、土民が悦服していたといわれ、城内には五千の手兵の外に、多くの堺の住民もたてこもった。この戦いは水軍の応援もあって、大内軍が優勢であったが、幕軍は折柄の烈風中に街の四方から放火したので、火はたけり狂って、一方の民家を焼き、ついに城も焼け落ちてしまった。

義弘も奮闘したが力尽き、自刃して果てた。時に年四十四才であった。これを応永の役といっている。弟弘茂は兵五百騎を率いて、兵部卿師成親王等と共に城の東廊で防戦していたが、衆寡敵せず力屈して和を乞うた。

師成親王はのがれて山口に下向され、上宇野令滝の法泉寺に入って落飾せられた。

○ 弘茂・盛見の争い

幕府は義弘の死後その旧領豊・石・紀・泉四カ国をけずり、防長二カ国を弘茂に与え、盛見の討伐を命じた。

応永七年(1400)弘茂は大群をようして山口に下ったので、盛見は鋭峰をさけて豊後にのがれたが、翌八年十二月長府に帰り、弘茂と四王寺山に戦って勝ち、更に下山城を攻めて遂にこれを滅ぼした。

○ 盛見

応永九年正月盛見は山口に凱旋した。幕府も盛見の勢力の盛んなるをみて、如何ともすることが出来ず、ついに盛見と和し、改めて周防・長門の守護職に補し、更に豊前、筑前の守護職をも兼ねしめた。

盛見は義弘と同様、大いに朝鮮と交易し、唐本「一切経」を始めとする大陸文物を求め、大陸色豊かな大内文化興隆の素地を培った。また兄義弘の菩提のため、香積寺に五重の塔姿建立の計画をなし、更に天下太平の祈願所、特に家内繁栄武運長久のためとして国清寺を創建し、父弘世、母三条氏、兄義弘並びに先亡の菩提を弔う所とした。

○ 持世・持盛兄弟の争い

盛見戦死のとき、共に九州に従軍していた義弘の子持世・持盛二人の間に、家督をめぐる争いが起った。

永享四年二月持盛は兵を起して持世を襲い、これを長門で打ち破った。そして持盛は九州の少弐氏と手を握り勢力を増して豊前から長府に入部した。持世は敗走後石見国に入って兵を養っていたが、勢力を回復して山口に還った。そして長府の持盛を追い五年四月、豊前国篠崎でついに持ち盛りを討ち亡ぼした。かくて家督は持世がつぐこととなった。持盛の菩提寺は滝の勝音寺である。

其の後持世は大軍を率いて九州に渡り、筑前の少弐氏を破り、豊後の大友氏を討ち、永享九年(1437)正月には殆んど大友、少弐両氏の勢力を押えて山口に凱旋した。この時持世は幕府の安堵状を得て周防・豊前・筑前の守護職になった。

○ 嘉吉の乱

当時将軍足利義教は諸将を遇する道に欠けていたので、麾下の将士の心を失っていた。たまたま幕府の重臣赤松満祐は、将軍が満祐の領地を割いて一族貞村に分ち与えようとしたので満祐は大いに怨み、嘉吉元年(1441)六月事をもうけて将軍義教を自分の屋敷にまねき、宴の最中に義教を殺した。世にこれを嘉吉の乱という。

持世もこの時将軍に従って赤松の屋敷に居たので重創を受けた。そのために一ヵ月後の七月二十八日に卒した。山口宮野の澄清寺はその菩提寺である。持世は一面文学の素養もあり歌をよくし、新続古今集の作者に列している。

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