大内文化について

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大内氏概略

大内氏の隆盛

○ 教弘

持世は子がなかったため、盛見の男教弘を養うて嗣子とした。教弘は家督をつぐとすぐ少弐氏を討ち、肥前の一部にまで勢力を伸し、更に長禄元年(1457年)には安芸の平安を志して、銀山城主の武田信賢を攻め、その分国は周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見・肥前の七ヶ国にまたがった。

○ 朝鮮貿易

教弘は北九州海域を押えて、しきりに朝鮮と貿易し、いよいよその富を増した。この頃朝鮮との貿易は対馬の宗氏が統制をはかっていて、我が国からの使節はことごとく宗氏の証明紹介が必要とされたが、大内氏は必ずしもこれに従わず、直接朝鮮との取引きをしていた。大内氏の勢力と信頼が宗氏の証明以上のものがあったからである。

いま大内氏の遺品として毛利家に蔵されている朝鮮の通信符は、銅製の符半折にしたもので、その材の横に「朝鮮国賜大内殿通信符景泰四年四月日造」と刻してある。これは通信符の右符で、その左符は朝鮮に保管されていて、勘合の用に供せられたのである。景泰四年は我が国の享徳二年(1453)に当る。教弘はこの通信符をその貿易船に授け、大いに対鮮貿易を行ってますます富強をなしたのである。

○ 築山館の造営

教弘は今までの大内屋形の北方に、方八十間の敷地を画して、周囲に三間の堀をめぐらし、石垣で高井築地を築き、豪壮華美極まる別邸を営んだ。世にこれを築山館とか築山御殿とかよんでいる。これはますますふえる外客の応接に使用するためのものであった。

教弘は文学を好み、殊に和歌は師成親王に学び、親王筆になる「李花集」を相伝した。また連歌のよくし、新撰菟玖波集の作中でも秀れた作者とみられている。また画聖雪舟を山口に招いたのも教弘である。

○ 伊予出陣

寛正五年(1464)伊予の河野通春は幕府の命に背き、宇都宮、細川の両氏と合戦していた。教弘は細川氏の乞いにより兵を率いて伊予に航したが、陰に通春を助けた。幕府の重臣細川氏との対立はここに始まった。

たまたま船中病にかかったので、興居島に上陸し、療養したがついに卒した。時に寛政六年九月三日であった。菩提寺は小鯖闢雲寺である。

○ 応仁の乱と政弘

教弘の後を嗣いだのは嫡子政弘である。父の意をついで河野氏を助けたので細川氏と対立し、細川勝元は大内氏討伐の幕命を発した。

このようないきさつがあったので、応仁二年(1468年)京都に応仁の乱が起ると、政弘は西軍の山名宗全に味方し、五月大兵を率いて東上し、備中の中津井、摂津の本庄山、難波の氷室に戦い、威風堂々京都に入った。このため戦況は全く西軍に有利に展開した。

これより十一年の間、東西両軍は京摂の間で争ったが、文明五年(1473年)両者の主将宗全、勝元が相ついで死歿したので、その後将士は戦いに倦み両軍自ら矛を収めるに至った。政弘も文明九年(1477)十一月に軍を率いて帰国した。ここにおいて十余年もつづき京都を焼野原と化した大乱もおのずと終った。

○ 教幸の叛

政弘が京都に出陣している隙に乗じて、筑前の代官伯父教幸の叛が生じた。即ち、教幸は大友氏に誘われ、政弘に反して款を細川勝元に通じた。しかし留守をあずかる守護代陶弘護はよくこれに対し、周防玖珂に戦って撃破した。

教幸はのがれて石見の吉見信頼にたよったので、更にこれを追い吉見の兵を阿武郡各地で破った。教幸は豊前にのがれたがここで自殺した。

文明十年(1478)吉見信頼も政弘に降って和を請うた。この年陶弘護は筑前守護代となり、東軍に応じた少弐教頼を討ったが、九月太宰府に戦ってこれを斬り、豊前筑前を平定して山口に帰った。

長享元年(1487)将軍足利義尚は六角高頼と近江で戦ったが、政弘は間田弘胤を代理としてこれを派遣した。将軍義尚は延徳元年(1489)陣中で歿したが、延徳三年には政弘自ら上京して新将軍義植を援けて再び六角氏を近江に攻め、明応元年(1492)には嫡子義興を参陣させた。

○ 政弘の学問

政弘は武将としての半面、芸道文学にもたいへん関心を示した。在京中に公卿や学者と野交際が多かったことが彼を一層文化人としたのである。和歌・連歌の道にも親しみ、文明七年十一月十三日興隆寺法度条々を見ると、毎月本坊又は便宜山中にて和歌の興行を行うこと、毎月月次連歌を武士等で行うことなどが定められており、政弘を中心とする家臣団が如何に文学を愛したかが判るのである。

政弘主従は京都在陣中に宗祇を招いて連歌を興行したが、帰国の後文明十年(1480)六月、宗祇は政弘の招きに応じて山口に下り、築山館でたびたび連歌の興行をした。宗祇が新撰菟玖波集二十巻を撰したのも、政弘のすすめに基づいたものと言われている。

また当時能楽は武人のたしなみとして普及し始めた。文明十五年六月猿楽座宝生が大内館に滞在して興行と指導を行うなど、芸能人の迎えられたことなどは、後年義隆時代に至って能楽の全盛期を迎える前駆をなすものである。

更に山口の人桂庵玄樹の儒学や、雲谷庵の雪舟の絵画は山口に芽生えて全国に影響を及ぼした大内文化の華であるといえよう。

政弘はついで大陸貿易にも意をそそぎ、幕府と共に遣明船を派していたが、後勘合符のことについて細川氏との紛糾が起り、ついに大内氏の遣明船は廃止された。しかし対鮮貿易は応仁の大乱後ますます意を用いた。政弘の対鮮貿易は国内の事情を反映して、財貨の獲得と軍費の補充を主目的としていたことは政弘時代の特色といってよい。

政弘は中風症であったので、かねて家督を子の義興にゆずっていたが、その病が再発して明応四年(1495)九月十八日、山口において歿した。菩提寺は滝の法泉寺で、墓はその後方の山中に現在残っている。

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