大内文化について

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大内氏概略

大内氏の滅亡後

○ 義長と晴賢

山口の変乱を聞いた相良武任は筑前花尾城に拠って、陶の軍に抗したが敗死し、その首は山口に梟された。晴賢は先に武任が義隆に提出した訴状を一見し、主君を始め重臣公家を多数殺害した軽挙妄動を後悔し、頭を剃って全姜と号した。

そして杉重矩をきらって不和となり、翌二十一年(1552年)正月佐波郡大崎に蟄居した重矩を攻めたが、重矩はその形勢を察して早くも領地の長門万倉に走った。晴賢はこれを追詰め、その地の長興寺において自殺させた。晴賢はこの首をもって義隆の亡霊に謝し、かつこれを山口に梟した。

このようにして山口の動乱も漸くおさまったので、晴賢は予定の通り豊後の大友晴英を迎えた。晴英は二十一年三月山口に入り大内氏をついだ。この時晴賢は晴英の偏諱をうけて、今まで隆房を称していた名を晴賢と改めたのである。晴英も大内氏の主君であることを強調するために義長と改名した。しかし大小の政務は悉く陶晴賢が裁決し、実権は晴賢が握っていた。

天文二十二年(1553)の十月頃、石州津和野城主吉見正頼は、晴賢を討伐する兵を起したが、ついに翌年の四月には毛利元就も晴賢と絶交して、正頼を援助し、晴賢討伐の旗色を鮮明にした。

弘治元年(1555)十月、元就は陶の軍を厳島にさそいこれを全滅させた。晴賢は海岸づたいに島をのがれようとしたが、遂に渡船を得ることが出来ず、自刃して果てた。享年は三十五歳であった。

○ 毛利氏の山口進入

毛利氏は厳島の戦いの後、直ちに山口に向かって進軍を開始した。一方山口においては義長は高嶺の山頂に城を築き、これに備えた。たまたまこの頃大内氏の重臣内藤隆世が、杉重輔が毛利氏に服属したことをいかり、これを山口の後河原の邸に襲撃するという内訌戦が起った。このため山口市街は兵火にかかり焼土と化してしまった。

山口をめざした毛利軍は、陶隆春の玖珂郡鞍掛城を抜き、更に山崎興盛が守る都濃郡須々万の沼城を陥れた。そして陶氏累代の居城である富田若山城を攻めた。この時若山城には陶の遺臣が義長の命を奉じて守っていたが、大した合戦もなく落城した。

山口を守る大内勢としては、佐波郡右田嶽には右田隆量が居り、山口姫山には内藤隆世が拠っていたが、毛利氏の誘いにのり右田隆量は態度を変じて毛利氏に投じた。内藤隆世は姫山城を宍戸隆慶に人数千人余りをつけて守らせ、自分は義長を奉じて、築造中である高嶺城に立籠った。毛利元就は自ら主力を率いて若山城を発し、防府に進み、右田隆量の軍を合し、松崎駐屯の大内軍を全滅させた。

一方吉見正頼は阿武郡方面の大内軍を破り、宮野口に追撃してきたので、義長は築城未完成で兵糧も不十分である高嶺城に留まることの危険であることを覚り、城をすてて長門に走り、長府且山城によった。

毛利軍は山口に入り姫山城を降し、山口を完全に占領した。そして大内弘世以来歴代の居城の地山口は毛利氏の手中に納められ、一先づ周防の攻略は完了した。

三月二十八日毛利勢は長門にのがれた大内義長を追って且山城を攻めた。義長は城を脱出し、同地の長福院(現功山寺)に入って自刃した。時に弘治三年(1557)四月三日であった。ここに全く大内氏は滅亡し、陶鶴寿丸も殉死して、陶氏の正統も断絶するに至った。

これから周防は安芸毛利氏の分国の一つとして、毛利氏の支配下に入ったのである。

○ 大内輝弘の乱

毛利氏が防府を領有してから満十二年後の永禄十二年(1569)、毛利氏と対立抗争していた九州の大友氏は毛内氏の領国攪乱を企てて、当時豊後に寄寓していた大内輝弘を使嗾して山口に乱入させた。輝弘は義興の弟隆弘の子である。

義興の時大内氏の重臣杉武明の擁せられ、義興を廃しようとしたことがあらわれて、父子とも九州に走り、大友氏によったのである。大友氏は兵を輝弘に授け、大内氏の旧所領を回復することをすすめたので、輝弘は大いによろこび、兵船を率い、吉敷郡の南海岸、秋穂、白松の両浦に上陸し、北上して山口に向かった。

山口町奉行井上善兵衛は警報に接し、平野口にこれを迎え戦ったが、衆寡敵せずついに戦死した。輝弘は十月十二日に陶峠から山口に入り、龍福寺に本営を設け、築山に陣した。そして市中各所に火を放ち、高嶺城を方位し、一挙にこれを陥れようとした。当時高嶺の城将市川経好は九州出陣中であったが、その妻は他の城番と共によくこれを守ったので、輝弘は遂にこれを陥落させることは出来なかった。

城兵は直ちに輝弘山口乱入のことを、赤間関在陣の毛利元就父子に報じ、一方芸石の諸族に告げて援を求めた。報に接して石見の吉見氏の兵は宮野に進出した。元就も吉川元春、福原貞俊等に一万の兵を授け山口に向わした。当時大内氏の旧臣で毛利氏の快からぬものは相率いで輝弘に応じていたが、情勢の変化により次第に離散してしまった。

輝弘は山口を保つことが困難となったので、手兵八百を提げて秋穂にしりぞき、ここから豊後に逃れ帰ろうとした。しかし船は奪われていたので、海に沿うて三田尻に出たが、毛利軍の急追にたえず、ついに佐波郡富海の茶臼山で敵に囲まれて自刃した。この輝元の乱により、山口及び附近の大内文化の名残をとどめた多くの神社仏閣が兵火にかかって失われたことは惜しみて余りあることである。

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