大路小路の歴史

 山口の大殿地区には通りの名前に大路・小路とつく道が、今小路、徳大寺小路、久保小路、北野小路、石原小路、請願小路、相物小路、米殿小路、相良小路、馬場殿小路、片岡小路、銭湯小路、鞍馬小路、栗本小路、錦小路、大殿大路、竪小路、片岡小路、伊勢大路ほか多々あります。
 これらは室町時代にここに拠点を置いて治めた大内氏が京都を模倣して名づけたといわれています。
 ここではそのうちいくつかの名前の由来や歴史等を紹介します。
 

    大路小路名の歴史



●竪小路

 「竪小路」は大内時代のメインストリートというべき通りで、縦に伸びることから名づけられたといわれています。
 大内時代には、小路は、「コウジ」でなく「ショウジ」と読むのが一般的だったようです。
 大内氏時代の記録には「竪少路」と表記され、上下(かみしも)の区別はありませんでした。区別されるようになったのは江戸時代に入ってからのことです。 
 元禄年間(1688〜1703)の山口市街古図では、下竪小路の北半分は「中立小路」とあり、また、同じ地区を「新竪小路」と称した時代もあります。最初からすんなりと上下に分かれたわけではなかったようです。
 山口古図で見ると竪小路の名は無く「中ノ町、下ノ町、総門」と言った文字が見えています(ただし古図には、当時下竪小路西側から一の坂川にかけて存在したはずの善福寺がないので表記には疑問あり)。

○上竪小路・・・石原小路から北に、一の坂川の木町橋までの約350mの道。

 南端には、15世紀の中頃に大内教弘が、大内氏当主の居館として、また、山口を訪れた客を迎える館として建てた「築山館」があったといわれており、現在の八坂神社境内の一帯にあたるといわれています。
 このあたりは当時大内氏の家臣の屋敷が並んでいたようですが、大内氏滅亡後の江戸時代になるとその面影もなくなりました。
 しかし竪小路は、その後、萩往還の一部となり毛利氏には参勤交代道として、さらに幕末には維新の志士たちが駆け抜けていきました。
 幕末には、呉服屋、酒屋以外は藁葺きの家が軒をつらね、1700年代半ばの記録では、家屋数47軒となっています。1864年に八坂神社が移され、1867年には清末毛利家の山口屋敷が設けられました。

○下竪小路…北は野田町から石原小路に至る街区、南は石州街道まで。大内氏の時代、大町とよばれた縦の軸。

 1700年代中頃の宝暦年間、下竪小路の竈数は131。131件の町家で形成されていました。
 また、下竪小路の横丁として鞍馬小路、徳大寺小路、龍福寺馬場筋の3つが記録されていますが、いずれも人家無しとあります。
 幕末の山口市街図が示すとおり、この辺り一帯は耕地(畑地)になっていて、人家無しだったようです。
 山口古図には、竪小路の総門東側に徳大寺の名前が見えます。徳大寺小路とはその南側の小路のことでしょうか。また、現在「大殿大路」(江戸時代は「龍福寺馬場筋」)になっている通りにも人家はありません。ただ円政寺が大内館門前にいたる面積を占めていたと考えられるので、もともとこの辺り一帯は町家あるいは武家屋敷が並んでいた可能性は低く、衰微のためとは言いきれないところがあります。
 江戸時代、下竪小路の西側に宿駅が設置され、伝馬28頭と専従者22人を備えていました(「防長風土注進案」より)。残念ながら現在はその場所はあきらかではありません。
 しかし御成道として宿駅が設置されたことは、下竪小路が山口町での宿場町を兼ねてことがわかります。
 寛文7年(1667年)、下竪小路の家数は計82件。その内訳は町人73軒(職業は旅宿、小商人こあきない、職人、馬追い、日用稼ぎなど)。藩士および足軽9軒。幕末の山口市街図にあるように、畑作で生計を立てる人も多かったようです。
 およそ100年後1700年代中頃の宝暦年間の家数は96軒(古実類書集)。数が微増していますが内訳は明らかではありません。人口は減少しています。
 そのころの下竪小路の産物は干柿でした。 「安芸国西条の干柿を最上品とするも山口で作られるものを京師が特に好む云々(防長風土注進案)」 「山口名産の干柿は下竪小路の野村某が製造し、約400年前からの産業という(山口名勝旧跡図誌)」・・・大内氏時代からの特産品だったことをうかがわせています。


●石原小路
 上竪小路と下竪小路の境、八坂神社前を西へ一の坂川へぬける道筋が石原小路です。
 八坂神社が竪小路に鎮座していたとき、大宮司松田氏が当地に居住していたので「松田殿小路」とも称されていました。その松田氏が高峰のふもとに居住していたのが永正17年(1520)室町時代以降と言われていますので、かなり古い小路名です。
 石原小路の東にはザビエル記念聖堂の一部も見られます。


●伊勢大路…上竪小路から一の坂川にかかる伊勢橋を渡って伊勢門前町までの通り
 
 防長風土注進案には「円小路」と呼ばれていたこともあったと記されています。
 伊勢とも呼ばれていた山口大神宮は永正7年(1520)大内義興が京都から勧請したものです。
 その門前に開けた町が伊勢門前町です。多くの信仰を集めた伊勢様にいたる道、現在は様相を一編し参道といった趣はありません。防長風土注進案によれば伊勢橋は土の橋で長さ六間五寸(約11m)幅一丈二尺(約3.6m)とあります。大神宮の祭礼の日には竪小路方面の人々がここを渡ってお参りをする様子が目に浮かぶようです。

 
●久保小路…下竪小路の南端から一の坂川に向かう道。

  「久保」とは、当時、一の坂川は氾濫が繰り返されたため、竪小路側から緩やかに傾斜しており、地形が窪み、低くなっていることから名づけられたといわれています。
  大内時代には、北側には法界寺があり、ここ一帯はお寺の敷地であったと思われます。そのため久保小路は門前町に近い状態だったのではないでしょうか。
 1700年代中頃の記録には、家屋数35軒で田畑は無しとなっています。
 現在は、この通りの左側は、古きよき時代の飲食店街の面影を残し、また右側は新築の住宅街が並び、対照的な趣を見せています。


●栗本小路・・・飯田町から亀山に向かう道。

 栗本氏という名に因んだものかもしれませんが、大内氏の重臣にそのような名前は見当たりません。
 「栗本」の栗とは、栗の木の栗でなく、「小石、砂利」のことを表す「グリ」から来ていて、一の坂川の氾濫で小石や砂利で積みあがってできた土地の状態から命名されたとも言われています。
 1700年中頃の記録には、家屋数、正確には釜戸数15と記されている。


●片岡小路

 山口古図には、「比道筋吉敷朝倉街道斗ス」と併記されていることから、大内時代には、朝倉から吉敷に通ずる街道だったと思われます。片岡氏という名前も、大内氏の重臣には見当たりませんが、それなりの人物が屋敷を構えていたのでしょう。なお、「岡(=丘…亀山や春日山)の方」という意味で名づけられたという説もあります。
 1700年代半ばの記録には、屋数が8軒。       


●諸願小路……久保小路から大市に至る南北の道筋。

 曰くありげな地名「諸願」の由来は、防長風土注進案では、「諸願小路は大市より久保小路に入る所にて名産の蕪を出す所にしあれば、如願というものの力を得てこそ、その功をなすべけれ。されば如願小路と云いつらんを汚穢の何関わるをもって諸願の字に替えたるかな」とあります。名産品が蕪菜だった。良い蕪菜ができるのも肥料(如願)のお陰。如願とは糞土の意。したがって本来は如願小路と呼ぶべきであろうが、聞こえが悪いので「諸願」の字に替えたのではないだろうか?…古人の言い伝えによる幕末の見解です。
 名産品の蕪を産出したのがいつの時代かは不明です。しかし江戸期には幕末の山口市街図によれば町屋が立ち並び田畑がないので、大内氏時代あたりまで遡るのかもしれません。ただ、小路町名として諸願小路の名が見られるのは江戸時代からで、それ以前は明らかではありません。山口町の他の小路町名に比べても、ユニークな名前です。
 1700年中頃の宝暦年間、屋数は8。
 昭和45年、国道開通により南北に分断され、現在は北側部分にのみ名前を残しています。


●銭湯小路

 諸願小路の西筋が銭湯小路です。
 地名の由来は文字通り、銭湯風呂屋があったことに因むとされています。銭湯とは料金を取って沐浴させる施設のことですが、この歴史は実に古いのです。史料では平安時代の京都東山に、すでにそうした場所があったことが分かっていますし、室町時代が湯屋、風呂の流行と定着の時代に当りますから、大内氏の時代、この道筋に何軒かの銭湯があったとしても、なんら不思議はありません。
 山口とは直接関係ないかもしれませんが、永享元年1429年に日本を訪れた朝鮮国特使は、日本人の風呂好きに注目し、次のように報告しています。――
「日本人は大人も子供も沐浴し、清潔を好む。故に町毎に浴所を設け、角笛を吹いて、風呂屋の営業開始を知らせる云々。」
 沐浴とは、湯気で体を蒸す蒸風呂のことで、当時の庶民はまだ行水式には馴染んでいなかったようです。入浴料金として、風呂銭を取って営業する銭湯は、鎌倉時代末には史料上にしばし登場していますから、銭湯小路の発生も早い時期と考えられますが、山口では果たしてどういう風に営業開始を知らせていたのでしょうか。
 1700年代中頃の宝暦年間、銭湯小路の屋数は38とあります。久保小路が35で、諸願小路が8でしたから、かなりの密集ぶりです。因みに『防長風土注進案』に拠れば、幕末の山口町に風呂屋は8軒、銭湯小路には恐らく風呂屋はなかったと考えられます。
 昭和43年、当時の国道開通により、諸願小路同様、町は南北に分断され、かつての小路としての風情は一変しています。


●後河原
 桜の名所として知られる一の坂川沿い。その桜は大正天皇の即位を祝って1915年後河原町青年会がおよそ180本を植樹したもので90年あまりの歴史があります。
 後河原は室町時代からみられる地名で大内氏時代のメインストリートである竪小路の街並みの後ろに流れる川という意からそう呼ばれるようになったようです。
 一の坂川西南には入江氏、陶氏、牛田氏、周布氏、内藤氏といった大内家の家臣の屋敷があったといわれています。
 防長風土注進案によると、かつて後河原の物産に「雪舟盆」があり丸い盆を田舎や九州方面に売っていたとあります。


● 中河原町

 上河原なく下河原なくて中河原という。この中は上下に対する中にあらず、中市の後ろを流れる一の坂川沿いに立てられた町屋だからと、山口県風土史にその由来を記しているのが中河原町です。つまり、中市の後ろ側に形成された街区だから、中河原というわけですが、古図などで見ますと、中河原町は晦日町の北に描かれています。
 年月は不明ですが、『萩藩閥閲録』に、山県備後守就信が、山口のうち、中河原にある屋敷などを娘に譲るとして、殿様毛利輝元の許可を得ている文書が残っていますから、かなり古い町名であることは分かります。
 中河原町からのぼって、後河原へと続く一の坂川沿い両岸は、山口の町700年の歴史を色濃く感じさせる街区です。山口古図に陶氏出屋敷と記されているのがこの辺りです。
 陶氏出屋敷跡地は1616年に萩藩の公館である御茶屋となり、そして、およそ250年後の幕末、1863年に山口政事堂と改称、しばらくはここが藩制の中心地でした。そして、上田鳳陽が山口講堂をつくったのもこの地です。御茶屋の前方に位置していました。
 明治43年7月、軽便鉄道の山口駅が開設されたのが御茶屋橋前でした。
 中河原町の宝暦年間の屋数は32棟、多くはありません。戸数と言わないのは、当時空き家も含めていたからです。人数は分かりません。
 昭和50年代に入り、一帯は一の坂川を含めて急速に整備され、ご覧のような景観に生まれ変わりましたが、町目は今に残しています。


 ※「山口古図」(山口文書館蔵)は、江戸時代に作成されたと考えられる原図(現存せず)を明治時代に模写したといわれているもので、山口開府の年などの書き込みがある。中世の山口を考える上で貴重な資料だが、そのまま参考にするには疑問な点もある。竪小路・大殿大路など、大内氏時代からの町名は今も数多く残る。
 ※「防長風土注進案」は天保年間(1830〜43)に萩藩が編修した地誌
 ※「萩藩閥閲録」は享保5〜11年に萩藩が編修した古文書・系譜集
 ※「山口県風土誌」は明治34年に近藤清石によってあらわされた地誌

 ○参考・引用資料:『歴史の生き証人〜山口「路地・小路・町」〜』(著作:山口ケーブルビジョン株式会社)

 執筆協力:呉菲・中村裕美子・外山もえこ・ゴードン美沙子