「大内文化まちづくり」の基本理念

HOME >> 重要文化財 龍福寺 本堂修復 >> 修復作業の様子

修復作業の様子

■ 平成20年(2008年)4月〜平成21年(2009年)1月の作業

作業
山口市教育委員会文化財保護課による発掘調査

■ 平成20年9月10日現在



 3月に解体作業が終了した後、本堂があった場所の発掘作業が行われました。その関係で3階の見学ブースは立ち入り禁止で、2階の見学ブースからのみの見学となりました。



 2階の見学ブースからは、本堂のない空間が眺められました。あの空間の下で発掘作業が行われているわけです。
 いずれここにまた本堂がたつことになるわけで、何もない空間というのが見られたのはこのときだけでした。 



 本堂を囲む仮屋の正面が開いているときは発掘作業場がわずかに臨めました。2階の見学ブースからは角度の関係で発掘の様子を見ることはできませんでした。

 

 

■ 平成20年6月の発掘中間報告

 山口市教育委員会文化財保護課が6月に報道発表した発掘調査結果を記載します。

平成20(2008)年6月23 日(月)
大内氏館跡第34 次調査の成果(中間報告)
ー龍福寺本堂解体に伴う発掘調査ー
          山口市教育委員会 文化財保護課
 今回の調査地点は大内氏館跡でも中心的な位置にあり、館の主要施設の存在が想定されています。館の遺構についてはまだよく分かっていませんが、龍福寺の旧本堂跡が大内氏滅亡間もない中世末まで遡る可能性が出てきました。
 なお、調査の進展によって、今回発表した事実関係や調査所見に変更が生じる可能性があります。

1.調査の経緯
 平成17 年度  龍福寺本堂(国重要文化財)の解体修理事業に着手
 平成18 年度  覆屋の基礎部分について発掘調査を実施
 平成19 年9月 奈良文化財研究所の協力により本堂下の地下探査を実施
 平成20 年1月 本堂周りの発掘調査に着手
   同  3 月 本堂内部の発掘調査に着手
   同  6 月 本堂内部の発掘調査に着手

2.調査成果 現時点での主な調査成果は以下のとおりです。

 成果@ 龍福寺の旧本堂跡が見つかった。
  現在解体修理が行われている龍福寺本堂は、明治14(1881)年の旧本堂の火災焼失を受けて、興隆寺釈迦堂を明治16 年に移築したものです。発掘の結果、現本堂の基壇上面からわずか数p下のところで、明治焼失の旧本堂の跡と火災層が良好な状態で見つかりました。なお、長州藩内の寺社沿革を記した『防長寺社由来』(寛保元年〈1741〉)では「本堂 七間ニ九間」とあり、長州藩内の地誌をまとめた『防長風土注進案』(天保年間〈1831-1845〉)では「客殿 桁行九間 梁行七間半」と記しています。今回検出された遺構はこれらの文献の記述と対応する可能性が高いと考えられます。

 成果A 旧本堂跡は、中世末に遡る遺構の可能性が高い。
  旧本堂跡の遺構は、近世遺物を含まない盛土の上に設置されていました。遺構の重複がないことや、盛土の下にも龍福寺期の遺構が確認できないことから、明治焼失の旧本堂の建立は、中世末に遡る可能性が想定されます。なお、現在の場所に龍福寺本堂を建てたのは、毛利隆元による弘治三(1557)年とする説と、隆元の子の輝元による元亀三(1572)年とする説とがあります。今回発見された旧本堂跡がどちらの説と符合するかは現時点ではよく分かりませんが、大内氏滅亡間もない時期の遺構であると考えられます。

 成果B 現本堂の礎石には、龍福寺旧本堂の転用礎石と、興隆寺釈迦堂の転用礎石とがある。
  龍福寺の現本堂の礎石には、明治に焼失した旧本堂の礎石を転用したと推測されるものに加え、興隆寺 釈迦堂の礎石を転用したと推測される例もあります。前者は三郡変成岩と呼ばれる石材を用い、角柱痕や被熱痕が見られます。一方、後者には流紋岩質凝灰岩を石材とし、丸柱痕が認められ、その径は現本堂の柱径とほぼ一致します。

 成果C 館の遺構面は2面以上ある。
  隣接する第29 次調査では、大内氏館の最初期(大内U期;15 世紀中頃〜後半)の遺構は標高36.1 mの地山面から掘りこまれていることが確認されていました。今回の調査では、標高36.4 mで館最末期(大内W期;16 世紀前半〜中頃)とみられる遺構面が検出されています。その結果、館の存続期間中、盛土整地を伴う改修が行われた可能性が想定されます。現在、 部分的な調査しか行っていないため、遺構の詳細についてはよく分かっていませんが、柱穴などが存在するようです。

3.今後の予定
 今後は、エの発掘を通じて旧龍福寺本堂の遺構配置を確認したうえで、龍福寺期の盛土層を掘り下げ、12 月までを目途に大内氏館最末期の遺構の調査を行う予定です。

 

 

■ 平成20年6月の本堂修復中間報告

6月に報道発表された本堂修復途中経過を記載します。

重要文化財龍福寺本堂保存修理事業
1 建造物概要
@名称・所在地
    名称  龍福寺本堂  一棟
    所在地 山口県山口市大字大殿大路
A構造形式
    桁行5間、梁間5間、一重、入母屋造、桟瓦葺
B主要寸法
    桁 行  桁行両端柱間真々 5.401m
    梁 間  梁間   〃       15.401m
    軒の出  側柱真より茅負外下角まで 2.525m
    平面積  側柱真内側面積     272.197u
    軒面積  茅負外下角内側面積   419.062u
    屋根面積 平葺面積        574.126u
C重要文化財指定年月日 昭和29年9月17日(文化財保護委員会告示第39号)
指定説明
  龍福寺は元闢雲寺と称し、山口の西郊白石に在った後臨済宗を曹洞宗に改め龍福寺と称した。天文20年(1551)兵火に罹ったので、大内家居館の跡の今の地に移し、大内家の菩提寺とした。しかして明治14年早春火災に遭い、堂宇烏有に帰した。依って明治16年氷上山興隆寺の釈迦堂を移建したのが今の本堂である。
 堂は方五間、和様に僅かに唐様を取入れた円柱、出組組物、二軒繁垂木の堂々たる容姿を備え、また内部の大虹梁、板蟇股、組物などの構造手法に於いても見るべきものがある。ただ明治移建の際捶全部を取替え、屋根を桟瓦葺にしたのは惜しい。
 この堂の建立年代を知る資料を欠くが形式手法より見て室町時代に属するもののようである。この地方に於いては唐様の功山寺仏殿に対し和様を主とした形式の佛堂として重視すべきものである。

D修理の経過
 龍福寺は、建永元年(1206年)大内満盛が創建した臨済宗の寺院である。もとは白石と呼ばれる所にあり、宝珠山瑞雲寺と称していたという。延元元年(1336年)大内弘直が再建し、弘直の菩提寺となるが、享徳3年(1454年)大内教弘が雪心和尚を迎え中興開山として曹洞宗に改宗し、寺号も瑞雲山龍福寺と改めた。その後、天文20年(1551年)に兵火にかかり焼失してしまった。その後、弘治3年(1557年)毛利隆元が義隆の菩提寺として、龍福寺を大内館跡に再興した。しかし、明治14年の火災で禅堂と山門を残し、その他の建物は全焼してしまった。このため、明治16年に当時吉敷郡大内村にあった興隆寺の釈迦堂を移建したのが現在の本堂である。
 この地方における、中世和様建築の数少ない遺構として価値が認められ、昭和29年に重要文化財に指定された。その後昭和32年に屋根葺替修理が実施され今日に至る。

2 工事の概要
@修理方針 解体修理
ア 屋根、小屋組、軒回り、組物、縁回り、床組、天井、軸部までをすべて解体する。
イ 解体・調査時の作業の安全を図るため、素屋根を建設する。また、解体部材を保存管理する保存小屋を建設する。
ウ 基礎は正面の基壇積みや周囲の葛石、背面側角柱基礎石、床下束石、丸柱礎石は、一旦解体して据え直す。
エ 木部は、腐朽・破損個所は取り替えまたは補修を施して組立てる。その際、当初材は極力再用に努める。一部の造作材は、含浸硬化処理を行う。また防腐・防蟻の処置を施す。
オ 須弥檀は当初材が残存しているため、解体して調査を行う。
カ 解体調査によって、内部は内外陣境に建具が入っていたり、屋根は現状の桟瓦葺に対し檜皮葺きが認められることなどから、文化庁の指導を受けて現状変更する。
キ 構造診断による構造設計を行い、必要な補強措置を講じる。

A工期 着手 平成17年7月1日
    完了 平成21年12月31日
        (工事期間を54ヶ月、事業期間57ヶ月)
B現状変更の内容
 興隆寺本堂は、大内政弘によって文明11年(1479)再建され、大内義興が大永元年(1521)屋根や小屋組みの改修によって整備されていったと考えられる。その後、毛利輝元や毛利秀就によって屋根葺き替え等の修理が行われてきたことが明らかとなった。
 太い丸柱や大虹梁等創建当初の形態を残す部材が多数確認でき、当初へ復原することが文化財の価値を高めることと判断できる。

変更項目
ア 本堂後方にあった須弥檀を前方に移動させ、幅を一間から三間に拡幅させる。
イ 縁周りを四周巡らす。
ウ 各長押や造作材を旧位置に復する。
エ 背面中央間に、欠失している間斗束を復する。
オ 床組みを復し、畳敷きを整備する。
カ 正面の障子戸を蔀戸へ、脇は板扉や板壁に復する。内外陣境に板扉を復する。
キ 後設の天井を撤去する。
ク 軒廻りを復する。
ケ 妻飾りを復する。
コ 小屋組みを復する。
サ 屋根桟瓦葺きを檜皮葺きに復する。

■ 平成21年1月17日現在


 1月17日、山口市文化財保護課により、大内氏館跡第34次調査-龍福寺本堂解体修理に伴う発掘調査-の、発掘成果の現地説明会が行われました。

 この空間に本堂があったわけです。発掘作業のためにがらんとしています。こういう眺めは二度と見ることはできません。

 ※経緯
 平成19年9月 奈良文化財研究所の協力により本堂下の地下探査を実施
 平成20年1月本堂周りの発掘調査に着手
 平成20年3月 本堂内部の発掘調査に着手
 平成20年10月2度目の地下探査を実施
 平成20年11月 近世龍福寺に関連した遺構調査を完了し、館最末期遺構面の調査に着手



  2階から見た風景です。
 このベニヤの床板に囲まれた範囲、400uが調査面積です。



  当日来られなかった人のために全体をお見せします。 
 東の方角からみています。ここが本堂奥だった場所です。



  南に移動して、中央を見ています。



  さらに南に移動して、かつて本堂の外陣があった場所を見ています。



  今回の発掘成果で特筆すべきは、こちらの柱穴列です。印として張られた白い紐に並行して穴が並んでいるのがお分かりでしょうか。



  白い紐の下に一ヶ所、白いものの塊がみえますが、これは京都系土師器皿です。16世紀前半から中頃のものです。



  この穴は掘立柱建物跡か板塀跡の可能性があるとみられています。



  画面中央下部に見える石敷の部分の上方に、溝が横にはしっているのが見えますでしょうか。



  現在のところ、ここにどういう施設があったか判明していないため、この溝のようなものも何なのか推測もできませんが、こういう遺構も見つかっています。



  地表から約80p掘ったところに大内義興・義隆の時代の館の遺構面が出てきます。さらに約120p掘ると、館初期の遺構がでてきます。こちらがその初期の遺構です。



  また、発掘現場の北東の方角から、いいかえるとかつて本堂がたってた場所の右側の部分から、画像のような砂利敷遺構がでてきました。



  地面を意図的に固めてしっかりとさせたこの部分がなんであったのか、これもいまのところ不明です。

HOME | ↑ このページのトップに戻る |