山口市の歴史

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山口市の歴史(児童向け)

「大内氏の歴史」を児童の皆さんへ分りやすく解説いたします。

(大内氏歴代当主の世代数は、昭和57年発刊の山口市史P145に記載されている「大内略系図の中の「防長地名淵鑑」」の方を参考にしました。)

大内氏の先祖から16代盛房まで

大内氏の先祖は、百済国(くだらこく:現在の朝鮮半島南西部)第26代聖明王(せいめいおう)の第3子・琳聖太子(りんしょうたいし)と言われています。

琳聖太子は西暦611年に周防国佐波郡多々良浜(現在の防府市)に着岸し、子孫の正恒が「多々良(たたら)」という姓をもらいました。

平安時代になり16代・盛房(もりふさ12世紀後半)の頃に本拠地としていた所が「大内」という地名だったので、それにちなんで「大内」氏と呼ばれるようになりました。

そして周防国権介(すおうのくにごんのすけ)として次第に実力を伸ばしていきました。

17代弘盛から24代弘世まで

1180年、平重衡(たいらのしげひら)の焼き討ちによって東大寺が焼失しました。  翌1181年、後白河法皇によって東大寺の再建事業が開始されることとなり、1186年に周防国は東大寺造営料国(とうだいじぞうえいりょうこく:東大寺再建の材料や費用をまかなう国)となりました。

ところが、周防の国府の役人や地頭は従わず、特に大内氏は、重源上人の杣出し(そまだし:用材の切り出し)を邪魔するなど、いろいろと東大寺の命令に反抗していました。

そして、じょじょに勢力を拡大していった大内氏は、周防国から他の勢力を退けていき、24代・弘世(ひろよ1325〜1380)の時に防長2カ国(現在の山口県)の守護に任命されました。

1363年、弘世は2代将軍・足利義詮(よしあきら)に会うため京に上り、貿易で得た数満貫の銭貨や唐物を貢ぎ物として将軍や貴族に送りました。

また、伝承として、「そのとき弘世は京の町並や高い文化に感銘を受け、山口を西の京にしようと思い立ちました。一の坂川を京の鴨川にみたて、通りに大路、小路の名前を付け、京の八坂神社と北野天神を勧進して京のまちなみをまねしました。また、童を京からつれてきて町に住まわせて、山口の町人に京言葉をまねさせました。」というふうにいわれています。

あくまでも、物語ですから史実かどうかは分かりませんが、京にあこがれたという弘世の姿が想像できます。

また、江戸時代に作成されたと言われる「山口古図」には、大内氏が治めていた時代のまちのようすが描かれています。こうした資料などを基に、「弘世は、本拠地を大内から山口の龍福寺の辺りに移した」と言われてきましたが、最近の発掘調査や研究では、見直されつつあります。

25代義弘

25代義弘(よしひろ1356〜1400)の時代になると、豊前・和泉・紀伊・周防・長門・石見の6カ国の守護を務め、朝鮮との貿易も始め、大きな力を持つようになり、3代将軍・足利義満(よしみつ)の信頼を得ました。

しかしながら、足利義満は幕府の力の絶対化を図ろうと考え、勢力を伸ばしつつあった各国の守護大名の勢力が大きくな事を恐れて、これらの力を弱めようと思いました。

そこで義満は日本全国の大名に北山へ山荘の造営工事(今の鹿苑寺金閣舎利殿などを建てる工事)を命じました。

この時ただ一人、大内義弘が拒否しました。「武士はいくさを仕事とするものである。土木工事には出せない」というのが理由でした。これ以降、将軍義満と義弘の関係はしだいに悪くなり、将軍義満の「京に上れ」と言う命令を無視し続け、ついに、1399年に足利幕府と大内義弘の間で戦いが始まり、義弘は堺で戦死しました(これを「応永の乱」と言います)。

幕府は、応永の乱に敗れた大内義弘が獲得した領地を没収し、防長二カ国のみを弟の弘茂に与えました。

26代盛見から29代政弘

大内義弘が戦死した後、義弘の弟である、盛見(もりはる1377〜1431)と弘茂(ひろしげ?〜1401)の間で相続争いがおこりました。幕府は弘茂を支持しましが、盛見が争いに勝利し26代当主となり、幕府から周防、長門、豊前、筑前の守護に任命されました。

また盛見は、兄義弘の死を弔うため、香積寺(現在の瑠璃光寺の地)に五重塔を建てることを命じ、盛見の死後の1442年に完成しました。

27代持世(もちよ1394〜1441)、28代教弘(のりひろ1420〜1465)の時に朝鮮や明との貿易で領内の経済が豊かになると、山口には多くの文化人が集まり、西の京といわれるほどの文化の高まりと賑わいをみせました。教弘が造ったとされる別邸、築山館(今の八坂神社の辺り)を訪れた連歌師の宗祇は、館の壮大な様子をたたえて「池は海、深山は夏のこずゑかな」と詠みました。その碑が今の八坂神社の境内にあります。

1467年(応仁元年)、足利将軍家の跡継ぎ問題に端を発して、京を戦場とした応仁・文明の乱が始まりました。29代大内政弘(まさひろ1446〜1495)は応仁・文明の乱で西軍山名氏に味方し、長門、周防をはじめ石見(現在の島根県西部)・安芸・備後(現在の広島県)・豊前・筑前(現在の福岡県)肥前(現在の佐賀県)を治め、さらには勘合交易に参加し貿易の利益を独占しようとしました。

また、応仁の乱により京が荒れて行くにつれて多くの京の公家や僧侶が各地の大名を頼って落ちのび、大内氏の本拠地である山口にも文化人や身分の高い人々が多数やってきました。この頃、雪舟も山口を訪れ雲谷庵(うんこくあん)に滞在し、水墨画「四季山水図」を始め多くの作品を完成させています。

30代大内義興

30代義興(よしおき1477〜1528)は管領・細川氏に将軍職を追放された10代将軍足利義稙(よしたね1466〜1523)を保護し、1508年に上洛し将軍職に復帰させて京に約11年間住み、幕府の政治に参加しました。これにより日明貿易の権利とそこからの利益を一挙に手中に収めました。

しかし、長く京にいる間に、山口の政治がおろそかになり、また周りの大名が大内氏の領土に攻め込もうとしていたので、山口に戻りました。その後、出雲(現在の島根県の一部)の尼子経久との戦いの中、1528年に病死しました。

31代大内義隆から大内氏の最後

31代大内義隆(よしたか1507〜1551)は22歳で家督を継ぎ大内家当主となりました。

当主となった義隆は、朝鮮貿易の経路を確保するため九州の小弐氏・大友氏と戦い、勝利をおさめました。

次に、出雲の尼子晴久と戦いましたが、大敗し山口に逃げ帰りました。この敗戦で大内義隆の養嗣子(ようしし)が死に、安芸・石見の武将たちが裏切ってしまいました。また、九州で再び小弐氏が戦いの準備を整え大内氏に戦いをいどもうとしていました。

この頃、義隆は朝廷に献金して、1548年には従二位と言う、戦国大名の中では一番高い身分になり、7カ国を治める最大の戦国大名となりました。フランシスコ・サビエルが、山口の地で布教を開始したのも義隆の時代です。

しかし、山口が西の京と呼ばれ大内文化が花開いているその絶頂期である、1551年、家臣の陶隆房(後の晴賢)が主人義隆にたいして戦をしかけ、館で京からの使者を饗応中の義隆を襲いました。義隆は、普段から戦の準備をしていなかったため戦うことも出来ず、長門深川の禅宗寺院・大寧寺へ逃げ、そこで自刃しました。

陶隆房は豊後(現在の大分県)の大友晴英(はるひで:大内義隆の甥)を山口に迎え、大内家を継がせ、隆房は晴賢(はるかた)、晴英は義長(よしなが)と名を変え、大内家を残そうとしましたが、厳島の合戦で陶晴賢が毛利氏に討たれ、その2年後の1557年、毛利元就が山口に攻めてきて義長は自刃し、大内氏の正統はほろんでしまいました。

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