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大内文化まちづくりの歴史

第1回 大内塗り

大内塗りは山口市の伝統工芸です。現在、市内の8つのお店が大内塗りを製作しています。

南北朝時代の大名・大内弘世が京都からお姫様を妻に迎えたところ、妻が都を恋しがってやまないので、都から人形師を呼び寄せて人形御殿と呼ばれるくらいに人形を作らせ、慰めたという伝説をもつ大内氏の都ならではの塗り物です。それにしてもずいぶんと妻想いなお殿様ではありませんか。こんなお殿様、他にはいませんよ。

■ 大内塗りの歴史と工法

「大内塗」とは、一般的に大内時代に作られた漆製品のことを指してよばれているが、大内塗りの起源は明らかではない。ただ、大内氏の時代や江戸時代には山口で大内塗りの漆器が制作されていたと伝えられている。『李朝実録』や『皇明実録』によれば、大内氏の対朝鮮、対明交易の輸出品の中には漆器類がみられ、大内氏が大陸貿易を進めいていく中で、刀剣、扇子、硯とともに漆製品も重要な輸出品となっていたことがわかり、15世紀には山口で漆工芸が盛んに行われていたことがうかがえる。
また、「大内氏掟書」にみられる刀鞘などの塗物代についての定書は、山口で漆器制作があったことを物語っている。

毛利家所蔵の大内椀や、個人所蔵の漆塗足付盤は当時の遺品であり、大内氏時代に作成された大内塗の製品で現在もなお残っているものは、この二つしかないと言われている。

漆塗足付盤は山口県指定有形文化財で重要美術品としても認定されており、高さ21p、横40cm、縦37cm、縁の深さ1.2cmの外側は黒色、内側は朱色の卓子型の盆で、色彩形状ともにすぐれている数少ない大内塗の遺品中の逸品である。この漆塗足付盤の裏面に朱書されている銘文により文明十年(一四七八)に興隆寺の寺坊の一つ宝浄坊の僧であったが宥淳が施主で寄進したことがわかっている。

防府市の毛利博物館所蔵の「漆絵枝菊椀」は、山口県指定有形文化財で重要美術品としても認定されており、漆塗りの椀が本椀・平椀・汁椀・壷椀の四椀一組で揃っている。素地はケヤキの木材で、文様はベンガラ漆塗りの下地に金箔や色漆を用いて、枝菊・雲形・大内菱が描かれているものである。

江戸時代の漆工芸については、『防長風土注進案』十三巻山口宰判下に「椀屋三拾軒」記載され、産業の項にも「椀類凡一万四千五百人前、此代銭凡二十八貫四百二十目、内十七貫目漆器地代、残り十一貫四百二十目手取」「吸物椀凡三万三千七百人前、此代銭二十九貫八百八十目、内十八貫目漆器地代、残り十一貫目八百八十目手取、合銭百七十八貫三百目組手取之分」とあり、かなり大量の椀・汁物椀が作られていたことがわかる。

江戸時代までの加飾の技法を遺品からみると、毛利家や龍福寺の「大内椀」にみられる金箔貼りの技法、円龍寺に伝わる「雪舟盆」などにみられる漆絵の技法によって自然の情景等を写実描写する技法、そして、「雪舟塗椀・膳」(山口県立山口博物館蔵)などにみられる密陀絵技法による中国山水画風の加飾の三種があったといわれている。円龍寺にある「雪舟盆」は、『注進案』に載せられた絵のとおりのものであり図柄は非常に斬新で現代にも通用するものであるそうだ。

明治時代に大内塗の再興に情熱を傾けたのは郷土史学者「近藤清石」である。明治十八年、清石は毛利家の蔵から「大内千人椀」を発見し、これを範として大内時代漆工芸の再現を図り、漆工岩本梅之進・とよさぶろう兄弟に模作させ、さらに秋草模様の膳を入手し、これらを参考にして、模様・意匠に改良を加え、技法の研究を進め、「大内塗」の名称で市販した。なお、近藤清石の資料「雲捉風 大内家工芸考土代下」には、大内椀について絵入りで記されている。

明治末期には小郡に吉敷漆器講習所が開設され、大正中期には後河原を中心に約五十名の漆工が腕を競い漆芸専門の販売業者もあった。大正時代、山口市竪小路に山口県工業試験場が創設されると漆工課が置かれ、輪島などの先進地からも技術者が招かれ、技術改良が続いた。既成の漆工家と同試験場の卒業者たちによって、大内塗は戦前・戦後の苦難の時代を乗り切って、伝統的工芸品産業としての地歩を揺るぎないものに築き上げてきたわけである。

大内塗の製品として最も知られているのが、大内人形であろう。これは、漆に純金箔をあしらった人形で、夫婦円満の守護神として広く愛好されている。その他大内塗の製品としては大内盆、菓子鉢、銘々皿、硯箱、重箱、花瓶、花器、文庫、色紙掛、吸物椀、会席膳、茶托、箸箱などがあるが、その製作過程は木地製作と漆塗りに分かれており、それぞれの製作に携わる職人は、木地師、塗師と呼ばれている。

木地製作については木の乾燥具合が重要なポイントとなる。原木には水分が16%あるが、それを12%に下げなければいけないそうだ。素材となる木材は、チナイ・肥松・楠・けやき・栃・桜・ちしゃ等で、チナイは堅さが均一で目がなく、加工しやすく割れにくいため適材であるそうだ。

加工工程については次のとおりである。

(1) まず原木を約1年間十分乾燥させる。
(2) 乾燥させた木を製材所に依頼し製材する。
(3) そして、また、その木を自然乾燥させる。
(4) 木取りに入る。これは、木目を読んで欠点をさけて寸法を取り、 適当な大きさに切断するものである。 この時、丸太のように芯のある木は、割れが多くなるので 気をつけなければいけないそうだ。
(5) 木取りが終った木地をろくろにつけて粗挽き用鉋で粗挽きをする。
(6) 粗挽きが終った木地は再度自然乾燥させる。
(7)仕上げは、木地をゲンノウでハメに打ち込みろくろに固定させ、 仕上げ用鉋を用いて削り、所定の寸法を外パス、トンボで削りながら 型盤を木地にあてて形をあわせながら挽いていくものである。 その後キザゲ、皮タチ、サンドペーパーで細部を仕上げ、 ボロ布で研いで艶をだし完成となる。

漆塗りについては、漆が乾燥の際、適度の湿気を必要とする特質があることから温湿度管理にはいつも気を配らなければならず、とりわけ梅雨時期には乾燥が早く作業に注意しなければならないそうだ。通常製品の乾燥には、ムロ(室)またはフロ(風呂)と呼ばれる専用の乾燥用具を使用して乾燥具合が調節されている。また、塵埃にも注意が払われ、上塗り作業は締め切った部屋で行われる。漆は福井県や大阪の堺市の業者から仕入れているが、同じ業者から仕入れたものであっても、精製具合によって微妙に性質が異なるため、他の漆と混ぜ合せて調整して使用することも多い。加工工程は次のとおりである。

1、下地上りまでの工程
本竪地下地の傷見  → 刻彫り  → 地固め  → 刻い  → 刻揃え  → 布着せ  → 布目揃え  → 布目削り  → 地付け  → 地研ぎ  → 切り粉付け → 研磨  → 錆付け(1回目)  → 錆研ぎ  → 錆付け(2回目)  → 錆研ぎ  → 錆固め  → 研磨

2、下地上りから完成までの工程
漆こし  → 下塗り → 乾燥 → 研磨 → 中塗り → 乾燥  → 研磨 → 傷見 → 漆調整 → 漆こし → 乾燥 → 置目  → 色合わせ → 漆こし → 地塗り → 箔移し  → 金箔切り・貼り → 絵付け → 乾燥

木地製作も同様であるが、この漆塗りは、乾燥、錆付け、錆研ぎ、研磨などの工程が繰り返し行われるように、非常に息の長い細やかな作業であることがわかる。

この作業も下地・上塗り・絵付けは分担して行われ、どの工程も非常に熟練した技術を要することは言うまでもなく、現在、退職後に大内塗の技術を修得されようとする人が多いそうであるが、若い人に比べて3倍の技術修得期間がかかるようで、ほとんどの人は長続きしないそうである。また、絵付けについては細かい線を描くことになるので、高齢の人には困難であるようだ。(漆塗りについては、一人前の塗師になるには十年は要する。)

このように、現在も何人かの伝統技術保持者によって大内塗の伝統が守られているが、現状は次のような諸問題を抱えており、後継者育成・存続が危ぶまれている。

(1) 漆などの原材料費が高いため価格も化学的な工法の製品より はるかに高価格となり大内塗製品の需要が少なくなった。
(2) 労働生産性も現代技術による他の製品に比べればかなり劣るため 雇用者への給料の支払いも困難となり、 結果的に大内塗の製作に携わる人が少くなる。
(3) 大内塗製品製作での生業が困難なので、 家を継ぐ者も少なくなり後継者育成が困難となる。

これらの諸問題により、現在伝統工芸「大内塗」の置かれている状況は厳しいものとなっており、継承が難しくなってきている。

文:末次和信  山口の文化財を守る会発行「ふるさと山口」より)

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