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大内文化まちづくりの歴史

第3回 山口七夕ちょうちん祭り

■ 山口七夕ちょうちん祭りの記録〜明治18年

(読みやすくするために句点があるべきところで改行しました)

下記の記事が、新聞初出です。
「防長新聞明治18年8月18日(火)第191号」より

【 七夕 】
一昨夜は旧暦七夕なれば当所には例年の通り軒別に七夕竹を立て昼は短冊(でも一二丈ある)の風に翻るは銀河の流かと思はれしも夜の提灯は中々以て銀河の星の数所ではない
一本の笹は多くて百五十少くも三十に下らぬ提灯を釣したれば其奇観はこれはこれはとも言はれず
只口を開いて眺むる計りなりし

■ 山口七夕ちょうちん祭りの記録〜明治33年

「防長新聞明治33年8月3日」より

【 山口の七夕 】
関西に名高き山口の七夕祭りは一昨日をもて行はれぬ
昼の頃は少しく雲の出でたるを見しが夕方よりは余波(なごり)なく晴れ渡り天の川空いと高う夫(か)の牽牛織姫が星の宮に睦言すてふ声すらも風便りして艶めかしう聞ゆるかと妬まるゝまで冴え渡りにき
市中戸々家々には例により高き笹竹に短冊提灯など吊るし赤き青きさまざまの紙の色合ひは人々の心々におのが誠をとむるなるべし
されど近年は市中縦横に電線の架け渡されたるものから電信工夫は朝来市中を駈けめぐり成るべく電線に竹なとの触れざらんやう家々に注意を為し居たれば前年よりは花々しからぬ趣なりしが午後の有様は頗る景気よげに千紫万紅風にきらめき又なく美くしかりき
夜中は一層盛観を極め日中の短冊は取り去られて赤き小さき提灯と変り戸々或は数百燈少きも数十燈宛竹の端々に吊るしゝかばまことに目も覚むるばかりにて遠く臨めば乙女子の弄ぶ酸漿(ほおづき)の幾千となく連ねられしに異ならず
左(さ)れば夕方より遠近の老幼相携へて見物に出掛くるもの引きも切らず
八九時頃は最も雑沓(ざっとう)を極めたり
中にも中市なる八木支店にては開業披露として軒頭に数十の紅燈を吊り渡し景物などをも興ふると云ふものから店頭殊に賑ひ居たり
常に寂しき山口も此日ばかりは何処も及ばず
名物の提灯こそ愛でられつれ

■ 山口七夕ちょうちん祭〜明治43年

「防長新聞明治43年8月6日」より

【 山口の七夕祭 】
当地の七夕祭は昼間の色短冊夜間の紅提灯の多数を以て有名なるが本年より陰暦廃止されたれども山口実業会は従前通り其存続を主張し協議の結果毎年八月七日を以て星祭執行に決し其旨一般に通知せり

■ 山口七夕ちょうちん祭〜明治44年

「防長新聞明治44年8月6日」より

【 山口の七夕 】
陰暦廃止の今日に於て尚ほ之を墨守する旧弊家もあれども当地にては毎年陽暦の八月七日を以て七夕祭を行ふことゝなりしが中市の佐古春香堂にては本年も例の如く五百余の堤灯を吊し広告のため金ツル洗粉都の花石鹸新都の花白粉等の見本品を広告団扇多数を群集に撒き与る由

「防長新聞明治44年8月9日」より

【 七夕と盆踊 】
七日は当地に於ける七夕なりしが昼間は朝来驟雨屡襲来せし為め例の笹に色短冊を附けたるものゝ数甚だ少かりしが夜に入りては晴れたれば例年の如く堤灯の洞道を見んとて薄暮より頗る多数の人出あり
然るに意外にも提灯の数は昨年よりも更に少数にて之を点せざる家さへ多くを見受けたるは将来何んとか考ふべき現象なり
而して最も多かりしは中市の家々なりしが就中八木洋物店は約百五十個を佐古春香堂は五百個点じたる上に既報の如く都の花石鹸、新都の花白粉、金ツル洗粉等の見本及び団扇提灯等を撒き与へたる為め同店前は全く通行を絶たれたる始末なりき
尚ほ同夜及び八日夜は上金古曽三の宮境内に於て宮野村青年の発企に成る盆踊りありて人出も多かりき
之れ本年当地盆踊の始なり

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