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大内文化まちづくりの歴史

第4回 街なかのゲンジボタル

■ 一の坂川のゲンジボタル

大内時代(1358年〜1551年)、京の都より姫君を迎えたが、都を偲ぶ姫の哀愁を慰めよう、と宇治のホタルを取り寄せた。これが、山口に土着したゲンジボタルと言い伝えられている。

昭和10年12月24日に国の天然記念物に指定保護され、当時から戦後数年までは、一の坂川の本流である椹野川一帯で多く発生し、たえずホタル合戦(雄4〜5匹が1匹の雌を奪い合う)が見られたと当時の人々は話している。室町時代に書かれた文書によると、旧暦の4月20日をホタル合戦の日と呼び、「ホタルの縁日」として、ホタルの捕獲を禁止し、また、捕獲したホタルを放してやる風習があった。当時から美しい光の競演をせるホタルは、初夏を代表する風物詩として人々に親しまれてきた。

ところが、強力な農薬の出現と河川の改修や洗剤の普及などで、流水の汚染と生息地の改変が見られ、ゲンジボタルの減少が目立ってきた。

昭和40年に入ると、農薬も低毒性のものを使用するよう指導され、河川の改修も極力配慮され施行するようになり、減少したホタルも徐々に増加の傾向がみられるようになった。故橋本正之前県知事の構想の一つに、減少しつつある山口のゲンジボタルの生息・土着を試みる保護対策があり、昭和41年から専門研究委員児玉行氏がこれにあたられた。昭和41年より農場試験場がゲンジボタルの飼育に着手し、当初は農場試験場内の小川土着させるのが目的であったが、昭和43年、飼育していたホタルの幼虫が限度以上に増えたため一の坂川に放流したところ、翌年多くのゲンジボタルが発生・乱舞し、脚光を浴びることとなった。

昭和46年、8月5日の台風19号により一の坂川が流失し、市民の強い要望もあり、昭和47年、ホタル護岸による改修工事が行われ、昭和49年に完了している。ホタル護岸工事は、数回となく市民との会合がもたれた結果、最初は伊勢橋から亀山橋の間にホタル保護対策優先の施工法を取り入れ、児玉氏がその指導にあたられた。その後、数回にわたりホタル護岸は改修された。昭和47年には「一の坂ダム」建設も着工されている。

農場試験場での飼育放流は昭和57年まで続いた。以後、大殿小学校「コミュニティ研究会」へ、そして、平成3年に組織された「大殿ホタルを守る会」へと受け継がれ、大殿地区あげてのゲンジボタルの飼育と一の坂川の環境保全が行われるようになり、現在に至る。

一の坂川においては次々に橋の竣工も行われ、天花橋から亀山橋あたりでよくみられる。

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