山口市の歴史

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山口市子どもふるさと研究大賞

中学生部門大賞受賞作品

「旧小郡町内における地名の研究〜消えゆく地名と生まれる地名〜」

学校・氏名山口大学教育学部附属山口中学校 2年 前原有紀子
部門研究レポート
研究題目「旧小郡町内における地名の研究〜消えゆく地名と生まれる地名〜」
動機及び目的地名にも消えていく地名と新しく生まれる地名があることに気づき、旧小郡町内の地名に注目して調査してみたかったから。

はじめに

最近体験したこと

・私は列車通学ですが定期券には新山口〜山口と書いてあります。これまで長い間小郡駅という名前でしたが最近新山口へと変わりました。

・山口市が合併して、旧小郡町では下郷と上郷の二つの地名しか使わなくなりました。  また私の住んでいる地区は東津下といいますがこの地区名や小字名を使わなくなりました。

その一方で電車の窓から見える新しい町にはカタカナの名前がたくさん付いています。これらの体験から地名にも消えていく地名と新しく生まれる地名があることに気づきました。そこで今回は、旧小郡町内の地名に注目して調査してみようと考えました。

考えたこと

・地名を調べるに当たって考えたことは次の3つです。
1.小郡の地名はいつできたのか。
2.古い地名にはどんな意味があるのか。
3.新しく地名をつけるときどうやってつけるのか。

・これらをもとに地名のつけ方について3つの仮説を考えました。
1.人が住み始めると新しい地名が付く。
2.土地の特徴を表す地名が付く。
3.それまでの町と区別できるような地名が付く。

研究の方法

1.文献を調べて、由来がわかる地名を見つける。
2.現地に行ってどのような所か調べる。
3.分布図を作成する。
4.地名の付け方の原則を見つける。

古代の地名

(1)吉敷郡

1.「吉敷郡」という地名がはじめて登場するのは続日本紀の730年3月の記事である。そこには吉敷郡の山から銅を産出して長門鋳銭を行ったと書かれている。
2.次に「吉敷郡」の地名が登場するのは、931年につくられた「和名類聚抄」である。そこには長門の国には大島・玖珂・熊毛・都濃・佐波・吉敷の6つの郡があること。このうち吉敷郡は8つ以上の里(郷)を含む中郡と定められている。
3.周防の国に置かれた郡はいくつかの里(郷)によって構成された。一里は五十戸からなり、戸数を五十戸にするため戸籍の作成を行い、行政上の村落という性格を帯びていた。(小郡町史P98)

4.吉敷に暮らす人々

古代の戸籍制度では25人が1戸、50戸が1里と定められていた。吉敷郡には8里以上の中郡とされている。このことから吉敷郡には約10000人以上の人々が住んでいたと考えられる。(小郡町史P98)

〈現在残る吉敷郡の地名〉
東津の地名が入った表示の写真 省略

(2) 椹野

1.椹野川の「ふしの」とはどのような由来があるのか。

2.吉敷郡内には八田・宇努・多宝・益必(夜介比止)・広伴・神前・中河・八干・浮囚の十郷がみられる。
・郷名が地名になったもの
 八田→山口市大内町八田
 宇努→宇野令
 多宝→秋穂町大海

3.「防長地名淵鑑」および「山口県文化史」はのちに成立する東大寺領椹野庄と語韻が似ていることから浮囚郡を推定している。

浮囚郷とは奈良時代東北地方の経略が進むのにしたがい捕虜となった蝦夷を多く諸国に配置して、地方の開拓に当たらせたという記紀史料に基づき、吉敷郡内の捕虜集落もまた椹野川流域に置かれて、干拓に従事させたことによるものであろうと推測している。しかし、東北地方の捕虜が小郡まで連れてこられたという事実を示した証拠は何1つない。

4.ふしのの地名の由来について「小郡町史」では読み方に注目して小さい雑木が生えている原野の意味だとしている。「ふし」は小さい雑木を意味しているからと述べている。

5.遺跡の分布からみて浮囚郷の中心は大歳・平川地区であることは間違いない。

6.椹野庄は東大寺の庄園として成立した。

庄園は国に税を納めるのが原則であるが椹野庄は太政官と民部省との2つから税を免除された官省符荘の庄園として最も強い特権が与えられた。

椹野庄が成立した時期は「東大寺要録」には天平年間(729〜748)としている。一方竹内理三氏は752年としている。

〈現在残る椹野の地名〉
「椹野川」の看板表示写真 省略

(3)小郡

1.小郡という地名の由来について
「注進案」ではこの村は吉敷郡のなかでも別に一つ郡をなしているから小郡という。「地名淵鑑」では小郡は広濶なる東大寺領椹野庄の中央にありて、公文所を置かれたれば吉敷郡家の所有地吉敷本郡に対して、小なる郡家の意義に名づけたためかとしている。

以上のことから吉敷郡の中心となる本郷が現在の山口市吉敷にあり、山口盆地の入り口にあたる小郡にその出張所が置かれて小さな役所という意味で小郡と名づけられたのだろう。

〈現在残る小郡の地名〉
「小郡社宅」「小郡饅頭」の表示写真 省略

(4)古代につけられた地名の特徴

吉敷郡・小郡町・椹野川の3つの地名は古代に名づけられた地名であることがわかった。 その特徴は
1.広い地域を指す地名であること。
2.自然の地形を開発して農地を広げていった歴史を表していること
の2つである。

1.古代の地名の中で現在にまで伝えられている地名はそれほど数が多くない。したがって一つの古代の地名が指す範囲は現在の郡単位程度の広い範囲を指すと考えられる。

2.古代の地名の第2の特色は自然地形を開発した様子が地名に残されていることである。例えば小さな雑木林を表す「ふし」の原野を開発したという意味の地名が椹野川という地名として残っている。また吉敷郡という広い農地の中心が現在の山口市吉敷あたりに置かれ山口盆地の外にもう一つの小さな役所として小郡が置かれた。椹野川の河口のせまい三角洲を少しずつ高地にかえていった名残であると考えられる。

中世の地名

(1)津市

1.文明十二年(一四八〇)連歌界の巨匠である宗祇が山口から築前に旅行に行く途中、「かくて過ぎ行くほどに民家一むねあり、津の市という。左に川流れ、海づらはやや入りてものさびし」と記している。これがはじめて史科に記された津市のことである。

2.大内氏が山口に居たころ、諸国の船はみな小郡に寄港していたので津といい、ここに市が立ったことから津市という。

3.津市は、椹野庄の税である米を東大寺に向けて送り出すなど、大内氏のやかたのある山口の外港として適地だった。(続山口県地名考P168)

4.耕地を洪水から守るため、分流のうち最も西を流れる流路に単一化し固定した。小郡でも、中洲の耕地を保持するため、中世から近世にかけ柳井田から新町にかけ堤防を築き、ほぼ現在の流路への単一化と固定化が行われたと思われる。このときすでに津市は港町となっており、椹野川の流れをさかのぼって舟運により山口方面と連絡していたが、流れを止められることによって、堤防上を中州をつなぐ山口街道をつくり、さらに、山麓をたどっていた山陽道を平野におろし、津市で、山口街道と接合するようにしたと考えられる。津市は港の機能を失い、東津がそれを受け継いだ。

〈現在残る津市の地名〉
電信柱・道路沿いの地名表示写真 省略

(2)東津

1.厳島社蔵、嘉慶二年(一三二九)の大般若経奥書に、この地名があるから、この頃既に東津の名があった。

2.この厳島神社の由緒書きによると当社は、今から凡そ六百五十年前、大内氏が安芸の宮島より勧請したと伝えられ、もとの社地は、東津百谷の宮山に鎮座されていた。天正の末期頃、現在地に還宮され、東津及び近郷の産土神(うぶすながみ)として氏子の尊敬を集め、現在に至っている。俗に猿宮と云う。社殿が宮山にあった頃から、旧暦申の日に祭典が斎行されていたことや社殿に時折猿が戯れ遊んだことから伝えられたと推察される。当社の宝物として今から約六百年前の嘉慶二年、金剛仏子祐海により始筆された「大般若経」がある。応永三十三年まで約四十年の歳月を筆者十九名の社僧等によって、六百巻を終章し奉納したもので、この奥書により故郷小郡及び東津の地名が初見である。六百年前の真筆六百巻が完本として残っていることも稀で、他に類を見ない。今では貴重な文献として小郡町指定文化財となっている。

3.小郡町下郷で「地下上申」に津市の町並みに民家があるので東津という。

4.「地名淵鑑」には椹野川の河口西岸の海市を津市といい、その東岸を東津という。船舶出入の所で東大寺への貢物をここから積み出していたとある。

5.昔は入海の干潟のときだけ道があったがその土手が道になった。今の津市尻土手を築いてから新しく津市を本道の宿駅にし、東津市にも町づくりが命じられた。

6.「小郡町史」には近古には東洲と書いていた。慶長年間の町づくり後に山陽往来の官道になったことが林家文章にある。

〈現在残る東津の地名〉
「東津橋」「東津公民館」の表示写真・厳島神社の説明看板写真 省略

(3)蔵敷

1.1552年に初めて蔵敷の地名が出た。

2.豊前国津濃懸庄名記帳からわかること。
(1)米十七石余が小郡に到着したこと。
(2)山口へ弐石五斗余を送ったこと(銭で送ったので代金六貫四百廿文となり、その手数料として五升を蔵敷へ渡す)。
(3)残り十三石を小郡にある倉(蔵敷)に入れたままにしていること。以上のことから、豊前国の大内氏の所領から送られてくる年貢米は、小郡の蔵敷にある米蔵で貯蔵されていたことが分かるし、必要あればそこで銭に交換されていたことが分かる。

3.松江八幡宮大般若経紙背文書からわかること。
五斗弐合二夕 小郡津御倉敷分

これによって、大内氏の知行下の北九州からの年貢が、芦屋から小郡経由で山口に運送されたことが分かる。

このようなことから、小郡は山口の港湾として、水路交通の要衝として繁栄したのであった。

小郡に設置された米蔵は、船舶の発着する椹野川口の津市に近く、現在の景観からみても蔵敷の中心地におかれていたのであろう。 蔵敷という地名も、当時の名残と考えられる。

〈現在残る蔵敷の地名〉
電信柱・蔵敷公民館表示 写真 省略

近世(江戸時代)の地名と家数

上中郷家数気づき
仁保津下29新町東・新町西のように新しくできた町には人が多く住んでいる。 山が開発されてできた前畑・奥畑にも多くの人が住んでいる。
新町東62
新町西73
八方原41
岩屋42
前畑49
奥畑28
仁保津上35
 
下中郷家数気づき
柳井田31中世にできた津市や東津市に人が集まっている。
上山手や中山手のように山が開発されてできた所に人が住んでいる。
新開のように新しく開発された場所にも少数ではあるが人が住んでいる。
長谷27
柏崎61
津市95
上山手43
中山手23
東津50
新丁11
新開17
                   

上の表から開発された場所に人が集まっていると考えられる。
1.開発された場所について
小郡の開作のうち海開作では椹野川沿岸の八方原河口地域として津市・東津・慶三・勝間田・延宝・元禄などの各開作がある。小郡の街道筋として、津市―蔵敷―長谷―柏崎を経て嘉川に継がれ、商店集落が発達した。(小郡町史P155)

近世の地名

(1)大正

明治三四年、小郡駅が設けられたころ、その周辺は田地だった。
駅と既存道路との連絡その他の道路の整備を要したが、急にはその実が挙がらなかった。 大正に入り町は市中から駅に通ずる基幹線として、町役場から小郡町に至る直線道路を造成した。この両側に商店が立ち並び、さらに支道ができて駅の周辺の道路網ができあがるようになった。
このときの商店街が今の大正町である。(小郡町史P254)

〈現在残る大正の地名〉
大正通り商店街表示・地名表示写真 省略

(2)昭和

1.国道二号線
昭和二年に、道路の路線が変更になった。国道二号線はこれまで丸尾から東津通り・津市へと通っていた。これを丸尾の南からまっすぐに亀谷山下の椹野川に出て、昭和橋をわたり、幅員六間道路になり大正町を横断して国道十七号線に接続することになった。この分岐点が現在の南本町の交差点である。ここから南西に嘉川村に入る路線を国道二号線と呼ぶようになった。そして昭和に入って作られたこの道路を昭和道路と呼んでいる。

2.昭和橋
昭和三年に竣工した新国道二号線のために、初めて架橋された橋で、昭和二年六月の竣工である。橋の長さ六〇m幅員五mの鉄筋コンクリート造りである。年号に因んで昭和橋と名付けられた。

〈現在残る昭和の地名〉
橋・バス停表示写真 省略

〈原始・古代〉
〈中世〉
〈近世〉
〈近代〉
各時代の小郡の地図(手書) 省略

まとめ

以上の地名の調査から地名の付け方には次のような原則があることがわかりました。 仮説1…人が住み始めると新しい地名が付く。
原始時代小郡町の地域はほとんど海抜10m以下の低湿地だったため、海か干潟の状態だったと考えられます。やがて中世に入り大内氏時代、椹野川の土砂がたまって陸地となり、港町が作られるようになりました。この時付けられた地名が津市、東津、蔵敷などの地名です。新しく人が住んだり、利用されるようになるとそれにふさわしい地名が付けられます。

仮説2…土地の特徴を表す地名が付く。
古代につけられた地名は例えば雑木林の原野を表すフシノのように自然環境を表した地名が多いようです。中世に入って付けられた地名は津市、東津、蔵敷などのように商業・流通・機能に注目して付けられています。近世では新開などのように新田開発の行われた事を示す地名が付けられています。

仮説3…それまでの町と区別できるような地名が付く。
例えば江戸時代に開発された新町、新丁、新開などこれまでの町とは、違う町であることを表した地名が付けられています。近代に入ると明治、大正、昭和といった年号を町の名前に使って新しくできた町であることを表現しています。さらに最近ではカタカナで付けられた団地名をよく見かけます。例えば上郷に新しく開発された住宅団地はヴェルコリーナという名前ですがその意味は「緑の丘」です。緑ヶ丘団地と呼ばずにヴェルコリーナというカタカナ名を付けることで、これまでの住宅団地とは違う新しさを表現しようとしているのです。

以上のことから3つの仮説は正しかったと考えられます。

調査を終えて

日ごろ何げなく目にしている地名も大切な文化遺産であるということがこの調査を終えてわかりました。

地名からは自然環境・産業・交通・人々の生活の様子がわかります。さらに重要な事は、地名が人々の必要に応じて生まれたり、消えたりするということです。今ある地名が消えてしまう前に地名の研究をしておく必要があると考えるようになりました。

人が暮らす所には必ず地名が付いています。これからどんな場所で暮らしてもどこへ旅行しても新しい地名に興味を持ち、その由来や現在の町の様子に興味を持って調べてみたいと思います。

〈自画像写真〉省略

参考文献
1.「小郡町史」 編集小郡町史編纂委員会 昭和54年発行
2.「山口県地名考」 高橋文雄著 マツノ書店 昭和53年発行
3.「続・山口県地名考」 高橋文雄著 マツノ書店 昭和54年発行
4.「山口県の地名」日本歴史地名体系36 平凡社 昭和56年発行
5.「角川日本地名大辞典35山口県」 角川書店 1988年発行

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