山口市の幕末維新の歴史

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幕末の史跡

第8回 大村益次郎と長州ファイブ顕彰板・大村益次郎医学記念碑・脱隊諸士招魂碑

 面貌山が間近にみえるこの場所は、手前が国道262号線と県道21号線が交わる場所、裏に大内中学校運動場があり、山口インターチェンジのすぐそばです。

 ここに、大村益次郎と長州ファイブ顕彰板、大村益次郎医学記念碑、脱隊諸士招魂碑が並んで建てられています。
 ここにはかつて獄舎や、現在は道路となっていますが近くに刑場がありました。これらの碑はその歴史にちなむものです。

 これは明治26年に建立された、脱隊諸士招魂碑です。
 明治3年、戊辰戦争に活躍した奇兵隊などの諸隊は、常備軍に編成し直され、剰余員は解散帰郷を命じられました。剰余とされた隊士は暴動を起こし、新政府を震撼とさせました。この出来事を脱隊事件といい、このときの首謀者は柊にあった獄舎に入れられ斬に処せられました。
 これを弔うためにこの供養塔は建立されました。文と書は、長州三筆の1人として名高い、長三州です。

 慶応三年秋、大村益次郎はこの地で、藩の医学校「好生堂」の依頼により、女性の遺体の腑分け(解剖)を、日本で初めて行いました。
 陸軍創始者としての功績が語られることの多い益次郎ですが、もともとは鋳銭司の村医の子で、緒方洪庵の適塾で学んだり、長崎に遊学したのち、村医を継いだ、いうなれば西洋医学の知識を持った最先端の医者でした。その医者としての知識を、医者の卵に授けんとして行われたのがこの解剖です。
 「大村益次郎医学記念碑」は平成11年に建立された、防長における近代医学黎明の地として、大村益次郎を顕彰する碑です。

 「大村益次郎医学記念碑」の建立とともに、その右隣に、六地蔵尊が建立されています。亡くなられた方々への供養のために建立されました。

 平成21年6月、「大村益次郎と長州ファイブ顕彰板」が建立されました。これは「大村益次郎医学記念碑」がこの地にあるのを縁としたものです。

  文久3年5月、長州藩はひそかに5人の若者を英国に留学させました。伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三の、世に「長州ファイブ」といわれる5人です。当時、藩の江戸留守居役だった大村益次郎は、この渡航の費用の調達斡旋を行いました。
 この顕彰板はその歴史にちなむものです。

 こちらには、長州ファイブの5人についての紹介がなされています。

 これは、「長州五傑石」と名付けられています。長州ファイブの5人をモチーフにしたものです。上の画像でお見せしてますが、英国で5人が一緒に写った有名な写真をイメージしています。

 顕彰板のまわりには、英国の国花である薔薇と、日本の国花である桜が植えられていました。日英友好の証として、将来この地が薔薇と桜につつまれることを願ってやみません。

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