山口市の幕末維新の歴史

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幕末通史

【 大内氏滅亡後の山口 】

輝元の防長入国

関ヶ原の合戦で豊臣方に味方した毛利氏は、山陰・山陽百十二万石の領地をけずられ、わずか防長二州だけを領することとなった。そこで毛利輝元は慶長八年(1603)9月21日、伏見を発し、10月4日嘉川の蟹淵に着船し、山口糸米の覚皇寺に到着した。そして高嶺城の修築を命じ、一方城地の予定地を山口として幕府に願い出た。しかし、幕府はこれを許さず、北浦の萩の地は外寇防禦の要地であるからとの理由で、萩へ築城するよう指令した。よって輝元は翌9年11月、山口を去って萩に移った。大内氏滅亡後の山口繁栄回復の気運はこれによって見込みはなくなってしまった。

寺院の移転と大火

毛利氏は山口にあった香積寺を解いて萩に移し、別邸の用材とした。山口の寺院ではこれよりさき、天正年間に毛利氏が広島に建立した不動院(現在国宝建造物)も山口の寺の移築であり、慶長7年には近江三井寺の経蔵(現在重要文化財)に、山口市国清寺にあった経蔵を移建した。この外博多その他に移築された寺院もいくつかあった。また元和元年(1615)6月には幕命によって高嶺城を廃し、城をこわした。こうして大寺は他に移され、城はこわされて山口の地は年々さびしくなっていった。加えて万治元年(1657)には大火があり、東、西後河原、久保小路、立小路、相物小路、立売町、松木町、中市という広い地域の人家三百三十余戸が焼けた。更に天和二年(1682)には銭湯小路で三十九戸が焼け、正徳五年(1715)にも焼失二百十余戸の大火があり山口の衰運はいよいよ深刻になった。

この頃の山口は、ただ萩城下と三田尻間を結ぶ通路にすぎない有様で、繁栄をきわめた大内時代の片鱗さえ思い出すことも出来ないほど疲弊した状態であった。ところが嘉永六年(1853)6月米艦四隻が相州浦賀にきて、我が国に開港を求めたことから、徳川三百年の太平の夢は破れ、時代の情勢は一変した。山口の町もこのことが機となり、面目を一新することとなったのである。

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