山口市の幕末維新の歴史

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幕末通史

【 外艦の来訪と条約問題 】

下田条約の締結

米艦の来訪に驚いた幕府は、開港のことは年を改めて返事をするといって、一応去らせたが、明けて安政元年の正月早々に約をたがえずやって来た。幕府は数ヶ月の評定の後、とうとう日米和親条約十二条を結んだ。これによって米国はハリスを領事として日本に派遣したが、来日のハリスは和親条約を通商条約に改めるように幕府に申し出た。

当時世上は攘夷の気運がみなぎっていたので、幕府はその申出に対し評定のきまらぬ日を重ねていたが、ハリスは「今に英仏が中国に勝った勢で日本に乗り込み、どんなひどい要求をするかもしれぬ、早く米国と平易な条約をむすんで、英仏をそれにならわせることが賢明だ」などといって迫ったので、幕府は世上の反対意見を排し、止むなく仮条約を結んだ。そしてこの勅許を得るため、老中堀田備中守正睦が京都に上ったが、公卿らの大反対にあい事は破れた。

井伊大老の専断

このとき江戸では井伊直弼が大老となり、将軍の継嗣問題に一橋慶喜擁立の論をしりぞけ、紀州慶福を立て、そして懸案の通商条約は世論を無視して無断で調印し、朝廷に事後裁可を求めようとした。これらの事に対し、天下の硬論は沸然としておこり、時局は全く騒然となった。水戸・尾張・越前・一橋ら徳川の親藩は相携えて井伊の専断を難詰したが、直弼はかえってことごとくこれらの藩主を幽閉してしまった。

孝明天皇も幕府が攘夷を無視して、外国に屈従し条約を結んだことは、国威の失墜、皇祖の神威をけがしたものであるといかり、その罪は天皇の不徳であるからと、退位の親翰を発した。朝臣らは恐れ入って、幕府に対し徳川三家の内の一人、並びに大老を上京させ謝罪させるように命を下した。しかし幕府はこれに応ぜず、かえって老中間部下総守詮勝を上洛させ、暴力をもって朝廷を威嚇し、もし条約の許可が下らなかったら天皇を彦根に幽閉し、退位を迫ろうと謀った。ここにいたって孝明天皇は攘夷の密勅を水戸へ下し、大藩六藩に対しそれを伝達するように託し、さらに一方長州には主上守護の密直が下った。これにより長州藩は静観自重をやぶって天下の雄藩として行動を開始することになったのである。

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