山口市の幕末維新の歴史

HOME >> 山口市の幕末維新の歴史|幕末通史「明治維新と山口市」 >> 近航遠略公武一和の周旋

幕末通史

【 近航遠略公武一和の周旋 】

安政の大獄

一方井伊大老の命をうけ、威勢を示して上洛した間部下総守は、所司代や、町奉行等の手で、勤皇の志士や学者などをかたっぱしから捕縛し投獄した。これが世にいう安政の大獄で、長州の吉田松陰も江戸の獄において斬罪に処せられたのである。しかし万延元年(1860)3月、井伊大老は桜田門外で水戸の浪士らによって暗殺されたので、幕府の勢いはこれによってくじかれてしまった。

長井雅楽の献言

長州藩は、朝廷と幕府がいたずらに反目し合うことは天下民衆の遺憾とする所であるとし、重臣長井雅楽の建言した公武一和、近航遠略の説をとりあげ、時局を収拾する努力をすることとした。公武一和とは朝廷と幕府が睦まじく和合するという意であり、近航遠略とは開国進取という意味で、鎖国攘夷などという頑固なことはいわず、時代に応じて外国と貿易を進め、日本はどしどし躍進し、遠く世界に進出して、武力ではなく商業上の戦いをもって世界を征服すべきであるという説である。藩主敬親は時局収拾の対策としてこれを採用し、藩論として朝廷および幕府に献言することとなり、立案者長井を東上させることとした。

公武一和反対論

長井は出発に先だち、くわしく藩主の真意をうけ、また長府・清末・徳山・岩国の各支藩主をたずねてその賛意を得、京に向った。京では直ちに正親町三条実愛に面接し、公武間の周旋に努めることを力説し、さらに江戸におもむいて老中に会ってひとえに公武一和の議に努力することを説いた。一方藩主敬親も京・江戸の間を奔走して専ら目的の貫徹につとめた。しかし安政の大獄等に憤慨した京都の公卿や、諸藩の志士たちは、尊皇攘夷の主唱をまげず、幕府をして直ちに下田条約を破毀させようと主張した。尊王は暗に公武合体を否認し、攘夷はもとより航海遠略の反対であるので、長藩が唱えた公武一和、航海遠略はかえってその真意であるところをうたがわしめる傾向を生じた。

朝議においても長井の奉呈した建白書は極めて荘重謹厳に筆記されていたにかかわらず、書中に不敬類似の文字があるなどといい、暗に不採用の意を示すに至った。吉田松陰門下の久坂玄瑞なども長井を以って幕府に迎合する奸物であるときめつけ、帰国の途上これを要撃し、公武合体の周旋を阻止しようとした。

公武一和周旋の頓挫

このような事態になった文久2年(1862)の7月、藩主敬親は上京したが、ついに建白を遂行することの方法を失し、進退きわまる窮境にたちいたった。よって在京の諸臣を藩邸に召集して数日会議を開いたが、その結論として、何事も朝旨のあるところを遵奉するべきであるとし、従来の方針を一変して尊皇攘夷一本にかたまることとし、その先頭に邁進することを決した。ここにおいて公武合体、航海遠略の建白は却下され、長井雅楽は藩是一転の犠牲となり切腹を命ぜられた。

攘夷強調

長藩の方針が攘夷に決定すると、朝廷から藩主敬親、世子元徳のうち、一人は京都に滞在し、一人は江戸に出府して国事に周旋するよう命があった。よって敬親は江戸に出て幕府に対し、今までの専断をやめ、朝議にしたがって行動するように強く要望した。幕府も世論の向かうところを察してこれをとり入れ、文久3年(1863)の春、将軍家茂は上洛して叡慮遵奉の趣旨を明らかにすることにした。敬親は3年の正月、京都の周旋を世子元徳にし、2月12日萩に帰った。この時将軍上洛の議は既に決定していたので、元徳は攘夷の気運を一層促進するために、朝廷に対し、将軍到着をまって加茂・石清水両社への行幸をねがい、社前において攘夷の決行を祈願されるように建議した。また4月16日には神道の興隆、人材の抜擢、大学の創設、海軍局の設置、造船所、製鉄所を設けることの必要なことなど十箇条の意見書を朝廷に奏上し、久坂玄瑞を帰国させてこの事情を父敬親に告げ、下関の防備を急がせた。

HOME | ↑ このページのトップに戻る |