山口市の幕末維新の歴史

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幕末通史

【 山口移鎮 】

移鎮の理由

敬親は藩是を決定して以来、萩の地は辺境であって有事に際し防長二州を指揮するに不便であり、かつ海に臨んでいて防備上にも適切ではないので、藩府を山口に移鎮することに決し、文久2年9月頃から山口の地を踏査させていたが、翌3年3月25日になり、先ず日帰りの湯治と称して山口滞留を藩内に令した。こうして諸種の準備を整え、4月16日の早暁萩城を発って夕刻山口に至り、中河原の御茶屋に入った。そして暫くここを居館と定め、その一部を政治堂にあて、日々ここで政務を聴いたので、萩城内にあった主な役所は順次山口に移ってきた。5月に至り敬親は正式に移城の申請書を京都に送り、滞在中の閣老にこれを提出した。その文に

私居城長門国指月の儀は、同国阿武郡の片隅、土地卑下、人気狭小の所柄に御座候、当時外患切迫の儀に候えば、同国豊浦郡赤間関をはじめ、周防国佐波郡三田尻、熊毛郡室積など要津多く、且つ平遠の陸路も少からず、かたがた西北海はかつかつも耳目及ぶべく候えども、南海の儀はとかく気脈を通じかね候に付き、万一の節指揮号令差障りこれあるべく、就いては防長全国之辺備は十分相整い申さず、せっかく攘夷の期限決定の砌、肝要藩鎮の任堪えがたきやと、甚だ以て恐縮罷居り候、これにより末家並びに家老ども評議に及び候ところ、周防山口は領海にて中央の地四方への号令自然と響き渉り候形勢につき、右地に罷居り、三面海辺の指揮仕り候はば、進退動静その機にあたり候よう相成るべきに決定仕り候、私十三代の祖輝元、慶長年城地伺い候、指月へ金銀そのほか家来中、妻子をも差置き、山口には側廻り相勤め候ものばかり召連れ常々罷居り、他国使者の引請け等仕り候ようとの御内差図も御座候ところ、古今時勢の違い、敵情の変りもこれある儀に候えば、今に至りては、山口も以て金銀そのほかの置所となし、指月は勿論、桑山等を以て他国使者の引請場とも仕り度く存じ奉り候、しかしながら山口の儀は、全く以て城構え等仕り候儀にては御座なく、真の土居取立て、手近に召遣い候家来ばかり差置き候て、指月の儀は番兵こめおき、城下警衛厳重に申付け、藩鎮の任、これもその節を遂げ奉り度く決定申上げ候儀に御座候間、当御時勢の儀、格別の筋を以て、宜しきよう御差図なされ下さるべく候

とある。このとき幕府は既に5月10日を攘夷実行の日と定め、その旨を列藩に布告していたので、敬親は山口移鎮をその外艦に対する指揮の不便を理由に申立てたのである。

敬親の英断

徳川氏が江戸に幕府を開いた当初、一国一城令を発し、その後は既設の郭城についても、修理、増築を殊の外やかましく干渉していた。衰えたりとはいえ、いまだゆらがざる勢力をもっていた幕府をおそれず、山口に新城地を定めた敬親は、すでに幕府を相手とせず、王政復古、新日本の必成を期していたものと考えられる。敬親はけっして事なかれ主義の殿様ではなかったのである。藩の経済から言えば既に設備の完備している萩城をすて、山口に新城をつくることはむしろ無用の業ともいうべきかもしれない。また自然の山河も山口と萩とは何等の優劣もない。しかしながらあえて敬親が山口に新城を築き、移鎮を決めたことは、幕府の威光をおそれず、人心を新にして、勤皇の素志を貫徹しようとする積極的決心を内外に発表するものであったと考えてよい。

とにかく文久3年4月16日は、山口市民にとっては、まことに意義深い記念すべき日となったのである。大内氏が亡び毛利氏が防長二州の領主になったとき、山口の人々は山口が再び政治の中心地となることをうたがわなかったが、事実は萩が城市となり、その後の山口町は、日に日に衰亡する廃市の姿であった。毛利治下の二百五十余年、きびしい封建の掟の下に日々苦しい生活をおくっていた山口の町民であったが、藩主敬親の果断により、山口は水声山色俄然一新し、防長の政治の中心地、いな新日本建設の策源地としてはなやかな時代の脚光をあびるに至ったのである。

5月11日、敬親は萩から随従した諸役人の家族にも山口への移住を許し、またその前後、夫人や諸公子は寺院を借って山口に移って来た。六月三日には「日帰りの湯治」と称していたのをやめて、山口永住の旨を萩の士民に布告し、萩城の警備等は、すべて参勤の留守中の例に準ぜしめることとした。

移鎮の諭告

藩内の一般人士には、山口の移鎮の真意がわからず、殊に萩には保守俗論の徒が密かに反対を唱えていた。そこで7月20日敬親は世子元徳と共に、山口政事堂に諸臣を集めて、くわしく移鎮の実情理由を説明諭告したのである。新諭書の大意は

萩城は阿武郡の一隅に位し、国内割拠交戦の場合には要衝であるが、攘夷を行うに当たっては、軍を指揮する上に頗る不便である。然るに山口は二州の中央に位して、号令達し易く、自ら出馬する上にも便利がよいので、末家及び老臣と相談して、将来山口に居住することに定めた。併し萩城は先祖以来の居城で深い由緒もあり、大切な要害であるので、番兵を置き厳重に守備せしめる意向である。かく山口に移居したことは、当今の形勢上已むを得ない事情にもとづくものであるから、この理由をよく弁えて忠勇を励むように。

と述べている。ついで10月5日には萩に残していた蔵元役所、郡奉行所、代官所等も山口に移し、18日には新しく政事堂の勤務規則を制定し、12月6日には遂に萩の政事堂を廃して山口一本とした。

新都市計画

12月17日には山口の都市計画を樹て、諸官衙や諸士の邸宅、学舎、倉庫などの区画を定めた。この新山口の都市計画に当ったのは大村益次郎、中島名左衛門であった。両人とも早くから蘭学を修め、西洋の新知識を得ていたので、その都市計画はけっして今までの城下町の再現ではなかった。もちろんすぐ幕末の動乱期となったので、この計画は全部遂行されなかったのであるが、山口の新城下建設は実に新しい日本をつくり出す毛利氏の城下として新しい感覚の盛られたものであった。

このようなすべての改革は、山口の前途に光明を約束するものであったが、果たせるかな市内の人口は日々に増加し、商業は到るところに活況を呈し、他藩の知名士の往来もにわかに頻繁になった。さきに幕府へ出した届書には真の仮住所と書いたけれども、大藩の威厳をととのえるためには、新館の築造が必要となった。よって敬親は大規模な計画を樹て、地を一露山の麓(今の県庁の位置)に定めて12月その工をおこした。これ以来、山口は名実ともに防長藩治の中心となり、その繁栄を誇るに至ったのである。

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