山口市の幕末維新の歴史

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幕末通史

【 攘夷実行 】

外艦撃退

文久3年4月20日、世子元徳は二条城で将軍家茂に謁し、帰国の暇乞いをした。この日攘夷の期日が5月10日と決定したとの沙汰があり、将軍はこれを列藩に布令した。世子の帰国と共に長藩の有志の外、諸藩の有志もまた長州に下って来た。元徳は5月5日に徳山に上陸し、8日に山口本陣安部平右衛門の宅に入った。

さて5月10日の攘夷実行の日、たまたまアメリカ船が下関海峡を通過しようとして汐待ちしていたが、長藩はこれを発見し、砲撃したので彼の船は碇を切って遁走した。

23日にはフランス船キャンシャン号を、26日にはオランダ船メジウザ号を下関で砲撃した。6月1日アメリカ艦ヴイオミング号が下関に来た。長藩は砲台からこれを撃ったのでアメリカ船も応射し、為に藩の壬戌、庚申の二艦は沈没した。6月5日にはフランス艦ゼミラミス、タンクレードの二艦がきたのでまた砲撃した。

諸隊の編成

この頃高杉晋作は京都から萩に帰って蟄居中であったが、藩主敬親はこれを山口に呼び出して下関防禦の事をはかった。晋作は有志をもって新しく隊を編成せんことを上申し許されて下関に赴き、士農工商の階級を問わず有志を集め寄兵隊(後、奇兵隊)を編成した。時に高杉は年二十五であった。これから膺懲、御楯、金剛、市勇などの諸隊が出来た。堀真五郎も山口八幡馬場で一隊を組織し、八幡隊と名づけた。

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