山口市の幕末維新の歴史

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幕末通史

【 堺町御門の変と七卿西下 】

詰問使来藩

朝廷では長藩が攘夷の期限を逸せず、先んじてその緒をつけたことを賞すため、正親町少将を攘夷監察使として長藩に下した。敬親はこれを氷上山真光院に迎え、拝謁して褒勅をうけた。しかし幕府は攘夷実行は本心から出たものでなく、朝旨にやむなく同調したというだけであったので、幕府の態度は次第に反動的になった。そして長藩が期限を誤たず、攘夷を実行したことに対しても、これを過激不穏な行動であると断じ、詰問の使者、中根市之亟を幕府の軍艦にのらしめて下関に下した。長藩はこれを小郡に迎えたが、中根は下郷津市にある本陣「三原屋」で襲撃にあい、難をのがれるも二日後に中関沖で暗殺された。

大和行幸中止

藩主敬親は幕府を説いて朝議遵奉の範を示させ、国内の与論を統一して外交問題に対処するといういままでの方針を変え、真接に朝廷に当たることとした。つまり八月に益田、根来の両家老を上洛させ、攘夷親征大和行幸の儀を奏上した。そこで朝廷はその奏上を聴許し、8月16日を以て攘夷親征大和行幸の勅詔を下した。これは天皇が大和の神武天皇陵や春日神社に参拝し、そこで攘夷の軍議を開き、攘夷の徹底を期しようとするものであった。

しかしこれを知った松平容保は大いにおどろき、中川宮、九条、二条、近衛らの佐幕派の公卿達と謀り、このことは長藩の政権横奪の野心から出たものであると、中川宮を通じて朝廷へこれを密奏させた。朝廷ではこれを聞いて廟議は急変し、攘夷親征大和行幸の事は無期延期となすとの勅を下し、即日長州藩邸の堺町門警衛をやめさせ、会津薩摩の兵をもってこれにかえ、長兵は退京を命ぜられた。そして三条実美ら国事係七卿の参内を禁じた。これがいわゆる堺町門の政変で、今までの長州の順境が急転して逆境に落ちいった大政変で時に8月18日であった。

七卿都落

長藩はおどろき、朝議を挽回しようと鷹司邸に集合していたが、ついに形勢の非なることを知って、19日、三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉の七卿をともなって西下することとなった。真木和泉、淵上郁太郎、水野丹後、宮部鼎蔵、土方楠左衛門、清岡半四郎などもこれに随行して19日京を発し、26日三田尻と徳山に着船した。

朝廷は七卿の官位をうばい、逮捕の命を発し、また毛利敬親父子の入京を禁じた。萩にあった保守士族らは、藩政府役人らの方針が急激であったため、このような大事を惹起したと攻撃し、山口に来て難詰した。よって藩政府は一時毛利登人、周布政之助の職を免じてこれを慰撫した。

その頃、平野次郎らは、但馬で義旗を挙げようとし、三田尻に来て奇兵隊総督の河上弥一郎等と図り、七卿の一人沢宣嘉を三田尻からさそい出し、生野銀山で兵を挙げた。しかし事は破れて、河上は戦死し、平野は捕らえられ、沢は脱して後阿武郡大井村に来て隠れていた。

六卿来住

このようなことがあったので、山口政府は六卿を諸国浪士が集る中に置くことは危険であるとして、10月末三条実美を湯田に迎え、藩士草刈藤太郎の邸を旅館とし、他の五卿は氷上の真光院に移し、浪士等がみだりに六卿に謁見することを禁じた。程なく三条の草刈邸は会合または会議をするのに狭いので近くの井上五郎三郎(井上馨の実兄)の邸(井上馨の実家)の一部に十二畳の一室を増築し、ここを三条の寓居とした。三条は当時山口に来寓していた常陸笠間藩の儒者加藤桜老にこの室の命名を依頼した。よって加藤は何遠亭の記をつくり、室名を何遠亭とした。何遠とは論語の「何の遠きことか之れ有らん」より出たる語で、「公等が、青天白日の身となって都に帰ること何ぞ遠きにあらん」という慰籍の意を寓したものである。

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