山口市の幕末維新の歴史

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幕末通史

【 長藩の哀訴嘆願運動 】

長藩の苦衷

堺町門の政変に端を発して、長人禁京、七卿都落、長藩父子の勅勘など、日毎に長州の勢力がそれてゆくに対して、藩内だけでなく、諸国の浪士らも早く冤をそそごうと憤激してやまなかった。よって山口政府は早晩世子元徳を上京させることとし、先ず国司信濃に上京を命じ、元徳警衛として来島又兵衛に軍隊を編成するよう沙汰をした。来島は直に遊撃隊を組織し、別に力士隊を編成して訓練し、一日も早く進発しようといった。しかし周布は時期はまだ早いとして動かず、奉勅仕末というものを書き、家老井原主計を上京させて、在京の志士久坂玄瑞、野村靖等と百方苦心の末、勧修寺卿に面会を得て毛利父子の誠意を陳述した。

進発論と自重論

元治元年正月、朝廷から勅書が頒布された。中に三条実美らが鄙夫野人の言を容れて、叡慮を矯め大和行幸の勅を発したとか、毛利父子の如きは故なくして外艦を砲撃したとかいう意味の文字があった。よって、長藩士らの激昂は極に達した。来島又兵衛などは世子の出発をまたず脱走して上京しようといいだした。山口政府の周布はもてあまし、高杉晋作を宮市にやってこれを止めさせた。

この時来島は天満宮に相撲を奉納して戦捷を祈っていたが、高杉が鎮撫の藩命をもって来たことを怒り、「吾輩は君辱められて臣死すの行為をなさんとするのである。汝等は徒らに書を読み、「而後」の二字だけ考えるものである。汝は新しくもらった知行百六十石がきにかかるのか」などとののしった。高杉はかっとなって「何百六十石くらいに目のくらむ高杉ではない、汝止まらずば我先に行かん」と、その場から大阪へ脱走してしまった。藩では山県甲之進などを大阪に遣って高杉を連れて帰らせ、特別の詮議をもって萩の野山屋敷に置いた。

この時久坂玄瑞は桂小五郎の書翰をもって山口に帰って来た。書翰には京都の情勢がこまやかに記され、今は上京の時機でないとの連絡であった。ところが来島は大いに怒り、それは腐儒等の言うことである。周布は親友であるが、邦家のためなら詮方ない、吾が言が聴かれなければ刺し殺してやると、陣羽織を着し太刀を佩き、山口政事堂に行き、進発を早くするように説いた。周布はおもむろに時機はまだはやい、いたずらに朝敵の汚名をうけ、毛利家の破滅をまねくことになる、百の来島も三十六万石には換えられぬではないかと諭じたので来島は男泣きに泣いて去った。

しかし来島の上京の意志はどうしても禁ずることが出来なかった。来島は周布の宿所を訪うて自分一人でもよいから出発させてくれと頼んだ。周布もその情熱に動かされ、これを藩主に伺い、少人数を連れて上れと許したので、来島は勇躍して出発した。同時に有志五十人許も脱走して同行した。山口政事堂では来島が乱暴をしてはならぬと藩主の親書を大阪藩邸の留守居役宍戸九郎兵衛に遣した程であった。

ところが、山口における進発論は日を経て勢力を加えてきた。それで5月17日、吉川監物は山口に来て時機の到るのを待つようにと藩主に進言した。この頃周布政之助は萩に赴き、野山獄に馬を乗り入れて、獄中の高杉晋作に面会した。このことを俗論党の連中が、政府の重役が罪人を訪うとは不謹慎の至りであるといいだし、五十日間の謹慎を命ぜられた。ここにおいて沸騰した出発論をおさえる者もなく、長府、清末の末家も進発論となり、吉川監物もやむを得ずして岩国に帰った。

錦小路客死

3月26日、六卿は下関砲台を巡覧しようとして馬で湯田を発した。佐々木男也らがこれに随行し、精鋭隊その他六十人の兵が護衛した。山中の駅にいたったとき突然錦小路が喀血した。よって駕籠に乗って下関に行き、白石正一郎の宅に入って静養したがついに快復せず、4月25日

はかなくも三十路の夢はさめにけり夢はさめにけり赤間関の夏の夜の月 君がためすてむ命のいたずらに露と消えゆくことをしぞ思ふ

の辞世の二首を遺し淋しく異郷に客死した。三条等は藩主敬親とはかって、この遺骸を山口に迎え、5月8日朝倉の赤妻山の地に葬った。

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