山口市の幕末維新の歴史

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幕末通史

【 蛤御門の変 】

長軍進発

6月6日、世子元徳は諸軍隊士を吉敷郡台道の繁枝松原に集めて大調練を行った。その14日に、過ぐる5日、京都の池田屋で会合していた長藩その他の志士が、幕府の新選組におそわれて多くのものが斬り殺されたといういわゆる池田屋騒動の報が山口政府に達した。

こにおいて、福原越後は江戸に赴くと称し、兵三百を率い大阪に上陸し、24日伏見にいたった。真木和泉、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らもまた山口を出発し、兵三百を率いて山崎に入った。6月26日、国司信濃は兵八百を率いて発し、7月7日山崎へ着営し、7月6日には益田弾正が兵六百を率いて山口を出発し、13日大阪に入り、15日男山八幡に陣をしいた。

敗戦退却

18日、京都の周辺に屯集している長藩兵は即日退却すべしとの命があった。ここにおいて三家老は会議を開いたが、強硬説が多く、ついに機先を制して京都に進撃する事に決定した。そして各軍勢は一せいに禁門にせまった。この内で蛤御門が最も激戦であったので、これを蛤御門の変という。

この変に際し来島、久坂、寺島、入江らは戦死し、長兵は大いに敗れて退却した。そして真木和泉ら十七士は天王山に上って自殺した。これに先だち7月13日、世子元徳は三条ら五卿と共に進発し、吉川監物もまた新湊を出航したが、讃岐多度津い着船してはじめて京都の敗報を聞き、これを五卿および吉川監物に通報して帰国した。幕府は長州軍が禁門に向かって発砲をしたことを口実として、征長の勅命をうけ、徳川慶喜をその総督とした。

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