山口市の幕末維新の歴史

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幕末通史

【 外国連合艦隊との和議 】

外艦対策

この頃、英国に留学していた伊藤博文、井上馨は英ら四ヶ国の連合艦隊が長州に報復するという噂を聞き、急ぎ帰朝して山口に来った。そして攘夷は到底不可能であることをのべた。一方7月22日、長崎に派遣されていた南亀五郎が山口に帰り、日ならずして、英、米、仏、蘭の四ヶ国連合艦隊が下関に来ることを報じた。よってすぐさま御前会議が開かれた。この時はまだ京都の敗報が達していなかったので、会議は外国艦隊に向かっては仮に和して一時を緩和し、幕府に当たろうということになった。しかし井上馨は藩政府は防長を挙げて焦土と化しても攘夷を決行するといっておいて、今に至り和を講ずるとは何か、しかも仮に和を結ぶ等とは外国に信義を失うこととなるとその議に大反対を唱えた。この議論沸騰中、室津からの急使国貞直人が京都の敗報をもたらしてきた。敬親は国貞を別室で引見し、御前会議はそのまま中止となった。

26日、敬親は五卿を出迎えのため山口を出立し、宮市本陣に着した。家老宍戸備前、清水清太郎等もこれに随行した。翌日三田尻の大観楼で会議を開き幕府の征長軍に対することと、外国艦隊に対する両方画の処置について論じた。伊藤、井上二人と藩重役との間に大議論が行われたが、その決着はつかなかった。それで29日更に藩主父子、藩重役、および諸隊の重立ったものが宮市大専坊で会議を開き、ついに外国艦隊に対しては和を講じ、幕府に対しては毛利父子の知る所ではなかったと弁解することに決定した。そこで山口政府は松島剛蔵と伊藤博文と外国艦隊の碇泊している姫島に派したが、二人が到らざる前に艦隊は出発していた。

和議成立

下関には前田孫右衛門、井上馨を急行させたが、防備に当たっていた奇兵隊は激昂はなはだしく、追に開戦に及んだ。元徳は下関督戦のため船木まで行ったが、ここで我が軍の敗報に接し、ついに講和するとの議が決まり、止戦使として最初戸田亀之助が応接に行き、更に高杉晋作を正使とし渡辺内蔵太、杉孫七郎を副使とし伊藤、井上を通訳として下関に向わせ、前後三回の談判によって漸く休戦条約を結び、英国公使は、償金は幕府から取ることとした。

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