山口市の幕末維新の歴史

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幕末の史跡

【 幕軍来襲に対する藩内の対立 】

俗論党の抬頭

征長の幕軍に対してはまた長州藩の苦心は一方ならざるものであった。このため周布政之助と清水清太郎は岩国に行き、吉川監物に面会を願い、この難局を切りぬけることの尽力を頼んだ。監物は直ちに芸州に到り、その家臣浅野式部に会うて交渉の端緒を開いた。時に長藩内の俗論党は勢力を得て、恭順謝罪の方針をとり、毛利伊勢は加判役の筆頭となった。この方針に賛成した撰鋒隊は亀山の平蓮寺と讃井の円龍寺に屯して俗論党を声援していた。

井上の遭難

9月25日、家老以下政府員は出頭して敬親父子の居館で御前会議を開いた。毛利伊勢は此の際は御家のため恭順を表すより外に途なしと論じ、井上馨は極端に武備恭順を主張し、争論は正午を過ぎた。最後に敬親は武備恭順の方針をとることに決を与えた。よって翌日に末家およびその家老を召して防長の国論を一致さすこととし、薄暮に退散した。独り井上はなお敬親に召し留められて明日の手順等について諮問せられ、夜に入って湯田の自宅に帰る途中、中讃井の袖解橋付近で、撰鋒隊の壮士児玉七十郎等数人に襲撃されて重傷を負った。

周布の自刃

翌26日の明方、周布政之助は矢原の吉富藤兵衛宅の離れで自刃して果てた。それは防長の国難に立ち到った責任を一身に引きうけ、幕府の方針の非なるを見、憤激のあまり自殺したのであった。

俗論党政府組織

井上は重傷を負い、周布は自刃し、俗論党の勢いは日に盛んになるにおよんで、正義派はみな引退し、家老清水清太郎もまた無届で自分の采邑に帰っていった。その影響として藩主敬親は吉川監物と共に10月3日山口を発し、翌4日に世子元徳も出発して萩に帰城した。かくて、正義党の藩府員は罷免せられて俗論党の政府となり、諸役所も皆萩に移転されてしまった。

この時勢の非なることを見、危害の身におよぶことを知った高杉晋作は、10月20日、ひそかに萩をぬけ出て、山口に来て重傷の井上を見舞い、楢崎弥八郎を訪うて共に藩外に去ろうとさそったが応ぜぬので、高杉はひとり山口を出、徳地にある奇兵隊の山県有朋、野村靖にあい、富海から船で下関に行き、白石正一郎の宅に泊り、更に筑前博多に渡り、月形洗蔵寺と事をはかり、野村望東尼の平尾山荘に潜伏した。

長藩恭順

征長総督の名代成瀬集人正、幕府の大目附永井主水正、目附戸川■(金+半)三郎らが広島に来たので吉川監物はその応援に当った。幕府は益田右衛門介、福原越後、国司信濃の三家老の切腹、宍戸左馬介、中村九郎、佐久間佐兵衛、武内正衛門の四参謀の死を要求し、更に三条実美等五卿を九州の五藩に引渡すこと。山口城を毀っこと。敬親父子は寺院に蟄居し、自署の謝罪状を呈出することの諸件の実行をせまった。ひたすら恭順の意を表す萩の俗論政府はこれを受諾した。

徳地にあった奇兵隊、御楯隊、力士隊は相率いて山口に来て、諸院の寺院を借って屯営とし、総代を高嶺太神宮と常栄寺とに参籠させて祈願をこめ、主義を貫徹するため長文の建白書を藩主に出した。この時、家老浦靱負は山口に居たので、諸隊の挙動を一々萩に通じていた。反政府は恭順の際であるから騒いではならぬと、諸隊長等を萩に召還した。しかし誰も萩に出なかった。やむを得ず、諸隊説諭のため萩から家老毛利上野を山口を出張させた。上野は諸隊の隊長を集めた。野村清之助、大田市之進、林半七などが出頭した。上野は「敬親父子が専ら恭順を表しておられる際であるから、諸隊士はなるべく静粛にするように鎮撫せよ」と諭した、すると大田、野村らは幕府からの難題は、臣子として言うに忍びないことがあったときはどうするかと反問した。上野は「それもやむを得ない。毛利藩が亡びるということには代え難いから」といった。隊長らは大いに怒って、役人共を国賊とののしり、「今は場所柄であれば用捨して置く」と痛罵して席を蹴って去った。上野らは散々の有様で萩に還り去った。

諸隊から建白書はいつも俗論党のためにさえぎられて敬親の手許には達せなかった。よって三条実美の使として土方楠左衛門は建白書をもって萩に行き敬親に面謁を得た。しかし功を奏せなかったのみならず、萩政府は諸隊の解散を命じ、もし従わなければ追討するという形勢であった。ここにおいて諸隊長らは相談し、一旦長府にくだって回復を謀ろうと決心し、11月15日、三条ら五卿を奏じて山口を出発し、17日に長府に着し、長府公に建白書を呈上し、主義貫徹の周旋方を懇願し、功山寺を五卿の旅館とした。

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