山口市の幕末維新の歴史

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幕末の史跡

【 再征軍を迎え四境の大決戦 】

諸隊の奮起

筑前の平尾山荘に潜伏していた高杉晋作は三家老四参謀の死を聞いて憤慨し、11月22日下関に帰着し、諸隊の力を以て藩論を回復しようとした。この頃奇兵隊総督の赤根武人は調和運動を進めていたが、高杉はこれに反駁し、遊撃隊の石川小五郎、力士隊の伊藤博文らと計り、これらの隊を率いて、長府功山寺に至って三条らに謁し、兵を挙げて直ちに馬関の新地会所を襲い、吏員を追った。事はすぐに萩に聞え、萩政府ではすぐ諸隊追討の手配がなされた。

諸隊は美弥郡に打って出、まず絵堂において撰鋒隊を夜襲し、隊長粟屋帯刀を走らし、転じて大田を根拠とし、撰鋒隊を河上村で破り、14日呑水で激戦して、また撰鋒隊を破った。これより先、大田市之進、山田市之充らは小郡に出て勘場を襲い、大庄屋林勇蔵に金穀を徴発させた。矢原の吉富藤兵衛は小郡に行って大田らに会い、山口を占拠するの必要のあることを説いた。よって大田らは協議の上駒井政五郎へ兵を附して山口へ遣った。小郡の桜井慎平らは農兵を率いてまた山口に出た。吉富藤兵衛、杉山孝太郎、長松大助らもまた農町兵を編成してこれに合し、町奉行所や代官所を襲い常栄寺に拠り、その頃親類預となっていた井上馨を奪い出して総督とし鴻城軍と名づけた。この一隊は17日の朝、佐々並を襲うて俗論党の兵を打ち払った。

三条ら五卿は正月15日、筑前に移った。萩俗論党の勢は日に窮してきた。その上、萩にも正義党の一団が起り、藩主に政府改革の必要あることを進言した程であった。28日に遂に休戦となった。山県有朋は高杉晋作に説いて大田から山口に引越させた。

武備恭順に藩論統一

萩政府は漸次に俗論党の役人を罷免して正義党の役人と交迭させ、会議を開いて尊王の大義を貫徹するの藩論を確定し、鎮静会員の代表として香川半助、桜井三木三、冷泉五郎、江木清次郎の四人を山口に派遣し、諸隊の頭領高杉、山県、井上らに通達した。

武備恭順の藩是が決定すると、藩鎮はふたたび山口に置かれることとなり、敬親は元治元年2月27日、重臣を従えて萩を発した。その日は美祢郡大田に一泊し、翌28日山口湯田のお茶屋に着し、諸隊長を集めて親しく諭告した。3月5日多賀社の隣に御霊社を設け、臨時祭を執行し、諸隊士に参拝させた。ついで中河原の御茶屋に移り、対幕決戦の大方針を決定した。

京都変動後、久しく但馬に潜んでいた桂小五郎は大阪に出て、海路を下関に帰って来た。あたかもよし、薩摩の黒田了介は来て、薩長連合の密儀をなし、土佐の坂本龍馬の周旋によって成立した。桂と黒田とは同行して山口に来て湯田瓦屋に休泊し、藩主父子に謁して京都の事情を報告し、品川弥二郎は黒田と共に上京して薩摩屋敷に潜伏することとなった。

長州再征軍進発

幕府は、長藩が武備恭順に変り、山口城を修理し、藩主は山口に出て諸隊を閲見するなどして謹慎の態度がうすくなり、加えて幕兵うけて撃つべしという強硬論が盛んであることを知り、長州再征の令を発した。そして将軍家茂は慶応元年5月16日江戸を発し、京都に着し、長州再征の理由を奏上し、25日、大阪城に入った。

幕府は岩国、徳山両藩主に上阪を命令した。しかし四末家は山口に集って協議し、上阪の令を辞し、陳情書を出した。11月20日、幕府の大目附らが広島に来り、宍戸備後介(実は山県半蔵、家老の資格として)小田村素太郎を国泰寺に呼び出し、八箇条の尋問をなした。備後介はその一つ一つに痛快な答弁をなし、相手の乗ずる隙を与えなかった。大目附らはこれを諒として大阪に帰った。備後介はなお広島に滞在中、防長士民合議書という冊子を草して数万部を印刷し、その多くを他藩士に配布して防長二州人士の覚悟を訴えた。

明けて慶応2年の2月8日、老中小笠原壱岐守が広島に来て長府、清末、徳山の三家および吉川監物、家老宍戸備前、毛利筑前を召換したが、いずれも病気と称して応ぜず、滞在中の宍戸備後介を代理とするということで辞した。小笠原は更に重ねて毛利父子と興丸(後の元昭)長府、清末、徳山の三末家、吉川監物に広島に来るよう沙汰した。そして宍戸備後介には用がないので帰国するようにいった。備後介は高森まで還った。そして今度は宍戸備前の中継養子ということになって、毛利父子および興丸の名代として再び広島に引き返した。小笠原は長藩および四末家に対して封を削り、敬親父子の蟄居の命令書を交付しようとしたが、宍戸備後助は病気と称して出頭しなかった。小笠原は兵を宍戸らの旅館にやって宍戸、小田村を捕え、網乗物にのせて松平安芸守に引渡した。しかしその命令書は誰れも引受けるものがなかった。この頃、藩主の命を受け、宍戸等の見舞として広島に赴いていた河北一は、宍戸の秘密書類を衣中に隠して岩国に帰り、吉川監物に謁して広島での情報を述べた。監物は大いに憤慨して「毛利父子の代理に蠅を懸けたる以上、幕府への信義も最早これ迄である」と決戦の意を固めた。河北は更に山口に帰り、敬親父子に謁して広島の情報を復命した。敬親は然らば開戦の外はない、これを長府、清末へ通告せよと命じたので、河北は早駕籠で西に急行した。

四境の決戦

慶応2年6月5日、幕府は来る6月8日を以って征長軍進撃の期とする事を発令した。ここに於いて長州は、幕府の率いる三十数藩の軍を国の四境に迎えることになったのである。

まず大島口では高杉晋作、林半七の奇襲で、和船を交えた幕艦二十二隻を撃退した。芸州小瀬川口は幕軍の主力兵十万といわれたが、長軍は僅か二千でこれに対し、小方の兵地に山砲を敷いて幕軍を背後から挾撃した。幕府は高地から砲撃されて算を乱して敗走した。長軍はこれを玖波、大野に追撃したが、ついに幕軍は和を乞い休戦となった。石州口は山陰道の諸藩が浜田城に拠っていたが大村益次郎が破竹の勢を以て進んだので、浜田城主松平右近将監は城を焚いて退却した。九州口は九州雄藩の兵が小倉城に拠り、海岸各所に砲塁を築き頑強に対抗した。小笠原壱岐守はまた幕艦五隻を海峡に列ねて海陸協力して長軍に対戦した。高杉は海戦に、山県は陸戦に、兵わずか二百をもって当っていたが、高杉の奇計により忽ち五隻の幕艦を破り、山県も力戦して諸営を陥れて小倉城に肉薄した。それで城主小笠原右京大夫は小倉城に火を放って逃げた。四境の戦は以上のようにことごとく長軍の大勝に帰し、各戦勝地を占領して威風堂々幕軍に対峙した。

7月20日、四境の戦いが全く終らないときに将軍家茂は大阪城で歿した。よって幕軍の士気はいよいよ沮喪した。よって一橋慶喜が徳川十五代の将軍職についたが、長州征伐の敗報は頻りに至った。慶喜はおこり、自ら本営を広島に進めようとしたが、諸藩の兵は動かなかった。幕府勝安房を止戦談判のために宮島に派した。山口からは広沢、井上らが行き、宮島大願寺で対応したが、長藩は和議を拒絶した。

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