山口市の幕末維新の歴史

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幕末の史跡

【 三藩連合と討幕軍進発 】

三藩同盟

10月の末、薩藩の島津久光は黒田清綱らを山口に派して正式に薩長連合の意を表した。敬親はこれを湯田御殿で引見し、鄭重に待遇した。越えて11月16日その答礼使として木戸孝允、河北一を薩摩に派遣した。一方広沢真臣は奔走して芸州浅野との提携を策し、ついに三藩の同盟が盛った。

この慶応2年12月29日、孝明天皇は崩御し、翌3年の正月9日明治天皇が践祚した。

征長の処置難渋

当時京都では、長州に破れた徳川は潔く軍門に降るか征夷大将軍として敗戦ふたたび起つ能わずとすれば将軍は当然その職を辞すべきが至当であるとの説がさかんに行われた。また長軍に占拠されている各地の領主は、速に長州への処置をなして占拠地を解放せよと幕府に迫った。将軍慶喜はその処置に窮し、連日評議を重ねたが結論は出なかった。

2月3日毛利敬親は更に令して、山口を長く藩の根拠地とすることを諭告した。3月17日、天花にあった火薬庫が爆発し、死者十六名の外負傷者を出した。4月14日、高杉晋作は下関で病死した。敬親はその死を惜しむと同時に、長くその看護に当っていた野村望東尼の身の上をあわれみ、これを山口に招いた。望東尼は一時法泉寺の熊丸丑之助の家に寄寓していたが、後三田尻に赴き、ついに彼の地で歿した。

9月になり、京都で形成を視察していた薩の大久保一蔵、大山格之助は品川弥二郎、伊藤博文と共に山口に来た。敬親はこれを引見し、宍戸、木戸、広沢らと薩長連合、討幕出兵のことなどを協定させた。土佐においては、後藤象二郎の主唱により、政権返上を幕府へ建議することとなった。しかし薩長は姑息の改革には賛成できぬので、広沢真臣、大久保一蔵らは、中山卿、岩倉卿などにとり入り、薩長合同して討幕を決行することを陳べた。

討幕の密勅

ここにおいて10月14日、討幕の密勅は薩長二藩に下った。広沢真臣、福田侠平、品川弥二郎は密勅を奉戴して22日山口に帰り、藩主に伝達した。この時品川は岩倉具視の内意により、大久保から託せられた大和錦および紅白の絹地教匹を山口にもち帰り、有職家岡吉春を主任として、水ノ上養蚕局で「錦の御旗」を製造させた。

大政奉還

将軍徳川慶喜は、討幕の密勅が既に薩長に下ったことを探知し、討幕の鋒をさけようとし、なお征長敗北の責を負い、突如政権の奉還を奏上した。翌15日、朝廷はこれを採納した。しかし幕府は突然のことで色を失った。

12月8日、朝廷は三条ら五卿の官位を復し、入京を許し、敬親父子の官位を旧に復するという朝命を下した。志道貫一郎はこれを報ずるため先発し、桂太郎は勅書を奉じて京都を発した。12日、二条城に居た慶喜は大阪に下り、13日、長藩は備前藩に代って蛤御門の守衛を命ぜられた。この日志道は山口に帰着して、吉報を敬親父子に陳べた。更に桂太郎は、藩主復位復官の勅書を奉じて山口に着いた。敬親父子は沐浴斉戒正装して勅書を拝受した。

22日、万年寺(今の洞春寺)において嘉永六年以来、国事に殉じた諸英霊を祀らした。五卿は大宰府からの帰路三田尻に上陸したので敬親父子はこれを迎送した。

伏見鳥羽の戦

京都から放逐を命ぜられた幕兵は慶喜と共に大阪城に拠ったが、これらは会桑の兵と合し、大挙して朝廷を攻めるという噂がとんだ。朝廷は大いに怖れ、長薩を召してその策をねった。長軍の参謀山田顕義、薩軍の参謀西郷隆盛は相謀って、長薩芸の兵を部署して幕府の大軍を伏見、鳥羽で防ぐの謀をたてた。

明けて慶応4年の正月元日、慶喜は薩摩弾劾の名をもって上洛しようとしたが、その前衛と称して幕軍一万六千が大阪城を発した。長薩土芸の兵はこれを伏見鳥羽で迎え撃ち、3日から6日にかけていわゆる伏見鳥羽の激戦があった。その開戦の日、大阪城を襲撃せよとの朝命があったが、その沙汰書は9日の夕、山口に着いた。これにより第五大隊、第四大隊、第六大隊がそれぞれ山口を出発した。22日、元徳は山口を発し2月10日参内した。

幕府追討

2月9日、有栖川宮熾仁親王は東征総督に任ぜられて、錦旗節刀を賜わり、即日進発した。4月11日、江戸城は開城し、関東、東北を除く諸候は悉く朝廷に服した。しかし東北地方の戦争はなお継続していた。閏四月十一日、朝廷は世子元徳に帰国を命じ、敬親に上京するよう命を伝えさせた。よって敬親は5月11日、山口を発して東上し、6月2日、参内し優詔を賜い、種々の御下賜品を拝受した。

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