山口市の幕末維新の歴史

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幕末の史跡

【 明治新政 】

版籍奉還

慶応4年9月8日、年号が明治と改められた。11月3日、敬親は藩治職制改革を発令し、政事堂を議政、施政、会計、民政、軍政、社寺、学校、聴訟、撫育、好生、監察の十一局に分つ旨を在住諸士に達した。11月12日北越方面に転戦していた奇兵隊が山口に凱旋した。以後年末から翌年にかけて各地に遠征していた諸隊が次々に帰還した。2年2月2日、朝廷では毛利元就の勤王を追賞し、その霊社に豊栄神社の神号を賜った。

6月4日、かねて敬親は隠居願を呈出していたのが勅許され、元徳が家督をついだ。6月17日、版籍奉還の議が聴許され、元徳は山口藩知事に任ぜられた。9月、山口の公館を屋形と呼んでいたことを廃して、山口藩議事館と改称した。

脱隊騒動

11月27日、これ迄国事に奔走していた各諸隊の名称を廃し、第一大隊から第四大隊に至るまでを常備軍に編成しその剰余員は解散帰郷するように命じた。ここにおいて剰余員となった者は怨み、編成中にある者の中にも剰余員に同情する者が多くいわゆる山口脱隊騒動を惹起こした。藩知事は直諭書を下したが、その甲斐もなく、喧騒の中に年は改まって明治3年正月となった。そして遂に。警衛として藩議事館を包囲し、その勢はますますさかんとなって、小郡、右田、吉敷、金古曽、山口市内の各所に暴動を起し、争闘が所々に起った。この騒動は5月頃まで続いたが、各所で敗れて遂に鎮静した。

敬親薨去

 4月20日、藩議事館を藩庁と改称した。

9月23日、安政五年以来の国事殉難者の祭典を宮野村江良招魂場で挙行した。これは防長最初の合同招魂祭であった。

明治4年正月7日、勅使岩倉具視が山口に下向し、毛利敬親、同元徳に大政奉還の勅命を伝え、豊栄神社へ参拝し14日帰路についた。

3月28日(新暦5月17日)毛利敬親は山口藩庁内殿で薨じた。よって4月10日、香山墓地に葬った。

廃藩置県

4月14日、山口・豊浦・岩国・清末の四藩が廃せられ、山口・豊浦・岩国・清末の四県が成立し、ついで11月15日、この四県が合併し、新しく防長二州を一つとした山口県が成立した。そして藩庁は改めて県庁となったのである。これにより山口は県庁の所在地として、また県の中枢都市として時代の脚光を浴び、新しい発展が約束されることとなったのである。

 「明治維新と山口市」(山口市 昭和61年)より

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