山口市の幕末維新の歴史

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幕末山口諸人往来

第1回 山口移鎮〜文久3年4月16日 藩主毛利敬親、山口に移る

移鎮までの動き

文久3年(1863)正月、攘夷決行及び将軍上洛問題に揺れる京都に長州藩主毛利敬親と世子の元徳*は居ました。
その後、京都における周旋を元徳にまかせて敬親は国に帰ります。攘夷決行に備えて藩内の準備を整えるためでした。

2月12日、毛利敬親、萩城に着。

4月1日、毛利敬親は京に戻る長嶺内蔵太に対して、毛利元徳に4条の事項を伝えるよう命じました。そのうちの1条に山口へ行くことについて書いています。

「一、 攘夷之御国論前條之通御決定に付ては深き思召之旨被為在来十日より御日帰之御唱にて為御湯治山口へ被成御越彼地形勢御熟覧被遊候事」
(攘夷の御国論、前条の通り御決定については深き思召の旨あらせられ、来る十日より御日帰の御唱にて、御湯治として山口へ御越なされ、彼地の形勢御熟覧遊ばされ候こと。)

4月6日、萩城中にて毛利敬親は、ちょうど挨拶に来ていた徳山藩主・清末藩主・岩国藩主に、元徳に示した4条をみせ、意見を問いました。「要は士風を簡易の古に復し居城を山口に移し士卒を土着せしめ而して専ら力を王事に尽すに在り(防長回天史)」

4月10日、長嶺内蔵太が京に帰り敬親の命を伝え、
4月14日、元徳は宿舎としている天竜寺に、浦靱負(ゆきえ)元正*・根来上総親祐*・清水清太郎・小幡彦七高政・周布政之助*・村田次郎三郎忠之・桂小五郎・佐々木男也(おなり)・楢崎弥八郎・寺島忠三郎を召して討議します。そして各条につき意見をしたためました。そのうち山口へ行くことについて、

「此段思召之御旨はいまだ奉伺らず候へども山口形勢御熟覧と候へば定て上御始御家来中末まで古賢之所謂土着に可被仰付との御事かと奉存候土着之弊は士民共遊怠に流れ候付篤と御思惟被遊候て御家来中二十五歳以下十五歳以上のものは上に於て厚く御教育被遊候御基本を先づ被相立候様仕度奉存候
 但山口寺院不残御借上壮年衆悉く御引請被遊候て御世話可被成哉之事」

そして4月16日、毛利敬親は萩城を発して山口・中河原の茶屋に移りました。
「是より山口は防長政治軍防の中心と為る(防長回天史)」

(4月18日 井上馨・伊藤博文ら5年間の暇を賜り英国留学を命じられる)
(4月20日 朝廷に催促された幕府が攘夷の期日を5月10日と約束する)
(4月21日 毛利元徳、国に帰らんと京都を発す。のち岩国藩主が代わりに上京)

その後のことですが、5月に移城の申請書を京都滞在中の閣老に出します。
曰く、攘夷期限決定のみぎり、萩は阿武郡の片隅なので藩鎮の任堪えがたく、評議したところ、山口は中央の地にあたり四方への号令自然と響きわたる位置にあるのでそこに移って指揮にあたりたい、と。

ようは長門周防両国は海に囲まれており、外国船に海から攻められた場合、萩では山陰はともかく響灘・周防灘方面が遠すぎるので位置的にどこからも近い山口に藩府を移したいとのことのようです。

ともあれ藩の中心が移ったときより、山口の町は台風の目のような状況になるのです。

※山口・中河原の御茶屋
現在の「C.S.赤れんが」の位置にありました。 陶晴賢の旧邸地とその西隣の一画とを敷地として建設。藩主の参勤帰国や、その家族が山口に来たときの旅館、あるいは休息所にあてられました。宝暦11年(1761)の火災のときまで、台所は陶氏時代のものを使用されていたといいます。

山口中河原御茶屋差図(山口県文書館所蔵)より。
中河原にあった御茶屋の、いわゆる平面図。右手が一の坂川。右辺中央あたりに正門があり、その前に橋がかかっている。

山口町村図(山口県文書館所蔵)より一部拡大。江戸時代の山口の地図に描かれた御茶屋の姿。

御茶屋跡にたつ、C.S.赤レンガ

※注:人名は当時の呼び名でなく、広く知られている呼び名で記載しています。

参照・引用文献:
「防長回天史」(末松謙澄著 マツノ書店 平成3年刊)
「山口市史」(山口市 昭和57年刊)

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