山口市の幕末維新の歴史

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幕末山口諸人往来

第2回 新屋形建設〜文久3年4月17日

4月16日

この日、藩主毛利敬親は萩を4つ時(午前10時)に出発し、7つ時(午後4時)に中河原御茶屋に入りました。

4月17日

この日、新たに御屋形を建てるよう指示が出されましたが、家老達の意見は二つに分かれました。
 1、宮野方角に建てる
 2、鴻峯を後盾にし、長山を中にし、御茶屋までを丸取りにしその内へ御霊社・学校・政事堂を営築する

4月18日

家老ら、夕方に宮野を視察。この日、藩主敬親、法泉寺瀑布を見物。
(法泉寺瀑布はいまの「梅峯の滝」のことでしょうか。大内義隆も見物した歴史ある滝です。いまは訪れる人の少ない隠れた名所です。)

4月19日

藩主敬親、四つ時前に山口講習堂に出、稽古を視察。七つ時に帰館。
この日、新屋形建造のために中島名左衛門を呼ぶよう指示が出されました。
中島は肥前の人。西洋式砲術・練兵にすぐれ、この年、攘夷にむけた下関の砲台構築のため藩に招聘されていました。

4月20日

藩主敬親、この日も山口講習堂へ行き、農兵銃陣を見学。

4月21日

藩主敬親、午前中に湯田御茶屋へいき湯治。
過激な攘夷公卿である中山忠光が萩へ帰る途中に山口に来ました。前日、宮城彦助らと赤間関を舟で発しての到着です。旅宿は竪小路井関屋。
(なお下関市にある中山忠光墓は昭和16年国史跡になっています。忠光の姉は明治天皇の母親になります。)

4月22日

藩主敬親、午前、宮野村散歩。五つ時に御供を揃えて御本門より久保小路、竪小路を通り宮野村へ歩かれ、法泉庵で小休止、清水寺で御弁当。帰りは大市を通って九時(午後0時)過ぎに帰着しました。

夜、暗殺事件発生。常栄寺(当時は、いまの洞春寺の地にありました)の僧祖溟西堂が寺門の外で切り殺されました。骸は寺門外数十歩の地にありましたが、首は早間田の地(「もりのしげり」では後河原)に下記の立札とともにさらされました。
「僧事悪人長井右近坪井九右衛門ニ徒党種々姦計ヲ巧ミ以往如何様之国害ヲ醸シ難計ニ付高嶺之御神罰如以者也」
(略意=この僧は、悪人である長井雅楽・坪井九右衛門と組んでいろいろ悪巧みを働き害をなしたので高嶺の神罰がくだされた)
この犯人は宮城彦助であると後日語られています。

4月23日

中島名左衛門が萩より、築城の地を見定めるため呼び寄せられ、山口に来ました。
以後中島の行動
4月26日小郡口・陶峠・鎧峠 地形見分
4月27日鯖山峠・江良越・千切峠 其の他地形見分
4月28日宮野口研究
4月29日高嶺辺りより吉敷峠辺まで地理見分
5月3日築城について気付書差し出す

4月24日

 

中山忠光らは萩へ帰りました。

山口町村図(山口県文書館所蔵)より。 上部赤いところが鴻峰のふもとの山口大神宮。水に囲まれているのが長山(いまの亀山公園がある山です)。最下部の建物が中河原茶屋。右から左へ流れているのが一の坂川。  一の坂川より画像上部の範囲がおおむね「鴻峯を後盾にし、長山を中にし、御茶屋までを丸取りにしその内へ霊社・学校・政事堂を営築」の範囲とされたところ。のち県庁・学校が集中して建てられた。

山口湯田御茶屋差図(山口県文書館所蔵)です。 差図には下湯、中湯、上湯と書いてあるところがあります。

山口町村図(山口県文書館所蔵)より。 常栄寺と瑠璃光寺、瑠璃光寺五重塔が並んでいます。

参照:両公伝編年史料、高杉日記、尊攘日誌(いずれも山口県文書館所蔵)

※尊攘日誌は文久3年4月16日より同年5月19日までの藩主敬親山口高峯御屋形御住居中の政事堂日記
※高杉日記は高杉晋作の父高杉小忠太のいわば勤務日記

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