山口市の幕末維新の歴史

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幕末山口諸人往来

第3回 山口封鎖〜文久3年4月23日

幕末、山口の町への通行は制限され、他国人を入れず、閉鎖空間になっていたということ

「4月23日先づ諸口に番兵を置き、以て出入を厳査せんと欲し戍卒配置のの令を布き小郡鯖山宮野一の坂等の地に関門を急進し各々若干兵を置く。(防長回天史 第参編下 P418)」

「右番人御中間之者三人充御詰させ被成又十二人を六十日交代ニ被仰付矣・・・宮野口、一ノ坂口、鎧峠口、陶峠口、千切峠口、吉敷峠口・・・右同断弐人充同断ス弐拾四人を六十日交代ニ被仰矣事・・・右之通山口江之入口江番所建調被仰他国人入込堅く被差畄諸事厳重ニ取締被仰付矣・・・」(両公伝編年史料 文久3年4月26日の条)

防長回天史記載4月23日の根拠となる史料が見つからなかったので、もしかしたら4月26日のことかもしれません。

この日より山口の警衛のため他国の人が山口へ入ることについて規制が行われました。 宮野・一の坂・鎧峠・陶峠・千切峠・吉敷大峠・勝坂鯖山・小郡柳井田に関門が築かれ、監視員がつき、無許可で他国人が山口に入ることを禁止したものです。 これは山口に藩主が移ったことからその守りを固めるためで、5月に開始予定の攘夷に備えてのことではないかとおもわれています。

なかでも山口への出入り口として最重要地点の勝坂関門(萩往還・いまの鯖山トンネル付近)・柳井田関門(石州街道・いまの山口鴻城高校、柳井田交差点付近)は防御拠点として砦のような施設が作られていきます。

結果、石州街道と萩往還は山口の町を通れなくなったので、迂回路が設定されました。  下関方面から来た人は「小郡〜山口〜石見国」ルートのかわりに「美祢〜萩〜石見国(のち小郡〜防府〜徳地〜阿東〜石見国のルートに変更)」を使うようになりました。しかしこれもやむを得ない場合に許された通行で、通行中はずっと監視付きという厳しいものでした。

この規制は幕末の情勢が長州藩にとって厳しくなるにつれ強化されていきました。  藩内の街道の要所要所に番所・関門を作り、兵を置いて固め、夜間は閉鎖されて地元民ですら通さなかったようです。

 ずっとのちの話ですが、これらの関門が解除されるのは、なんと6年後の明治2年8月2日。戊辰戦争も一段落したあとで、この日、国森(守)・林光・鎧峠・陶峠・井開田などの関門が廃止されました。しかしまだ萩往還の勝坂関門・石州街道の柳井田関門と重要な地点の関門は残されていました。  明治4年7月6日にあちこちの口屋が廃されました。  そして7月14日の廃藩置県のあと、7月27日に勝坂・柳井田関門の唱が廃され、かわりに番所が置かれました。  

参考文献: 「歴史の道調査報告書5 石州街道」(山口県教育委員会 2005年刊)
「防長回天史」(末松謙澄著 マツノ書店 平成3年刊)
「もりのしげり復刻」(時山弥八 赤間関書房著 1969年刊)

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