山口市の幕末維新の歴史

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幕末山口諸人往来

第5回 世子帰藩〜文久3年5月8日

毛利元徳が京都より帰ってきたということ

5月5日

大田市之進(のちの御堀耕助)*・石川小五郎(のちの河瀬真孝)、攘夷に戦意を高める馬関(下関)より中河原御茶屋に来て、浪士の御勘渡銀について相談。攘夷のために馬関に来てくれた浪士はお金に困っていたようです。ちょうど山口に来ていた木嶋又兵衛の宿に寄り、いくばくかのお金を出すことで決着。二人はその日のうちに馬関へ帰りました。

同日、時山直八(松下村塾出身・のち奇兵隊、長岡藩との戦で戦死)が京都より攘夷戦に加わるため、徳山藩士渡辺新三郎、肥後浪士の黒瀬一郎助・安田喜助、備前浪士の安田元太郎、因州浪士竹内新八郎、嶋原浪士尾崎清五郎・梅村一郎を伴い山口に帰り宿をとりました。これらの人ものち馬関へむかいます。

5月6日

木嶋又兵衛(のち禁門の変で戦死)・佐久間佐兵衛(のち第一次長州征伐時に斬首)、中河原御茶屋を訪れます。木嶋は馬関へすぐに行くべきといわれました。

同日、正月・5月・9月の定例祈祷の5月につき、周防三宮である仁壁神社の大宮司が祈祷のため、神供鏡餅持参で中河原御茶屋を来訪しました。

       5月7日

将軍が攘夷期限の決定を朝廷に奏上。

5月7日

佐久間佐兵衛は萩へ帰ります。
同日、益田弾正*が、月番交替のため山口にやって来ました。

(4月26日元徳*庚申丸に乗り、護衛の諸船を随え兵庫港を発す。広沢真臣*も家臣として同道)
(5月5日徳山着)
(5月7日三田尻着)

 

5月8日

元徳は三田尻を4つ時に発し、7つ時前に山口着。

山口政事堂の人たちは鰐石橋まで迎えにでました。元徳はすぐに中河原御茶屋に入り、黄昏時に本陣に宿をとりました。

5月9日

元徳は中河原御茶屋で、益田弾正(のち第一次長州征伐のとき切腹した三家老の一人)・福原越後(のち第一次長州征伐のとき切腹した三家老の一人、元徳の実の兄)*・前田孫右衛門(のち第一次長州征伐のとき切腹した三家老の一人)・毛利登人(のち第一次長州征伐時に斬首)・宍戸九郎兵衛(のち第一次長州征伐時に斬首)*・浦靱負*を召し、藩政の伸張京都の近状について会議します。

同日、周布政之助(のち第一次長州征伐のさなか自死)と楢崎弥八郎(のち第一次長州征伐時に斬首)も京都より帰り、中河原御茶屋を来訪。
周布政之助は矢原にある吉富藤兵衛宅を宿とします。

5月10日

雨模様の空の下、元徳は5つ半時に中河原御茶屋を発し、萩城へ向いました。7つ時に萩往還の途上の町、明木に着。この日は明木に泊まりました。

そしてまさにこの日の午後、長州藩は、ちょうど長府沖を通りかかった米国船へ砲撃を放ったのです。



山口御泊中市山田虎介所差図 (山口県文書館所蔵)    山口の本陣。現在のちまきや向かい辺りにありました。

山口御泊道場門前安部平右衛門所差図 (山口県文書館所蔵)    山口の副本陣。アーケード商店街と一の坂川が交差する安部橋のたもとに。

参考文献:廣澤真臣日記 復刻版(広沢真臣著 大塚武松編輯 マツノ書店 2001年)
もりのしげり 復刻(時山弥八著 赤間関書房 1969年)
周布政之助伝 下巻 周布公平監修(東京大学出版会 1977年)
「防長回天史」(末松謙澄著 マツノ書店 1991年)
尊攘日誌(山口県文書館所蔵)

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