山口市の幕末維新の歴史

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幕末山口諸人往来

第7回 攘夷の中での山口引っ越し指示〜文久3年5月11日

藩庁移転に伴い、山口に引っ越すよう指示がでたということ

5月11日

(毛利元徳*が萩城に入る。)

下関で10日に行われた外国船(5月7日横浜発長崎経由上海行きのアメリカ船ペムブローク号)砲撃について、桂正熊・山縣甲之進・岡部繁之進が山口に第一報を報じました。  これをうけて山口から諫早半三郎・進吉太郎らを、状況を検するために下関へ派遣しました。

同日、諸職員の家族を山口に移すことを許可します。

5月12日

中島名左衛門・山田宇右衛門・田上宇平太・竹内正兵衛など軍事に通ずるものが毛利敬親に従って山口に在りましたが、下関からの第一報が届き、萩城で軍議が整はないことを慮り、彼らを萩に赴かせました。(代わって山田亦介が16日に山口に来ます。)

同日、下関で10日に行われた外国船砲撃について、南木工之介・椙杜駿河が山口に到り、長府藩主の使節井上屯とともに毛利敬親が引見しました。このとき総奉行毛利能登がすぐに掃攘しなかったことを理由に5月14日付で謹慎。其子宣次郎(実は弟)を下関に赴かせることが決まりました。

また、現状について、長州藩の士民に令を下します。

「・・・十日夕方米利堅蒸気船一艘・・・庚申丸御船にて乗寄大砲急に打掛候折柄癸亥丸御船よりも発砲・・・終に迯去候段赤間関より遂注進候就ては外夷之兵端是より相開候儀に付弥以防戦之覚悟無緩やう銘々其手当可為第一候事」

同日、益田弾正*が書を萩の宍戸備前等に送り、諸公子夫人の徒居を促しました。アメリカ船を打ち払ったので今後はいつ萩に来襲してくるやもしれぬので山口にうつるように。また住居は当分寺院を借りるように。ほか、いろいろな施設が山口に移るよう指示が出ています。

「・・・亜墨利加船討払被仰付候付ては此後何時来襲も難測に付節角攘夷御策略を以山口御遷居之御積も被為在当節御滞留をも被遊候・・・ 一上々様方急に山口御引越尤御住居所之儀は当分寺院にても御借受之事 一御霊社之儀は三の宮今八幡之間へ当分御合殿之事 一御宝蔵の儀は長山御蔵へ当分諸御什物御納め置之事 一山口諸口之兵備早速に御整之事」

これをうけてのち17日に真章院夫人(61代重就の六男親著の長女・65代当主斎元の姉)、19日に慈芳(64代斎熈三女・対馬藩主夫人)玉温院(63代斎房側室)、21日に芳春院(斎房側室)、23日に禎之丞公子(64代斎熈三男信順の長男・67代敬親養子)、25日に敬親夫人、6月4日に元徳夫人が山口に移りました。

(なお、この12日に伊藤博文・井上馨ら長州ファイブの5人が英国へむけて横浜から船出しました)

※このとき藩の要職についていた人は下記の通り。
加判役に、宍戸備前(三丘宍戸家)、毛利筑前(右田毛利家)、益田弾正(永代家老益田家)、福原越後(永代家老福原家)、浦靱負(寄組・阿月領主)。
政務座に、中村文右衛門、山田宇右衛門、桂小五郎、秋村十蔵、中村誠一、天野謙吉、山田亦介、中村九郎。
用談役に、宍戸九郎兵衛、北条瀬兵衛(大阪頭人)。
国政復古用掛に、田上宇平太、山田宇右衛門。


●「*」がついている人名は、人名辞典に略歴が載っています。

参考文献:
「防長回天史」(末松謙澄著 マツノ書店 1991年)

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