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第8回 真木和泉の窮地を助けよ〜文久3年5月17日
5月17日
久留米藩の紛擾を鎮定すべきの勅書、山口に達す。
(この勅書はなんの勅書かというと、真木和泉*が久留米藩に幽閉されている件についてでした。
寺田屋事件後、尊攘派で名高い久留米の真木和泉は同志らとともに久留米藩に幽閉されていたところ、同志3人が国を脱し、5月6日京都の長州藩邸に来て、久坂玄瑞*にあてた書を渡し、助けを求めました。
京都で協議が始まり、清水清太郎・寺島忠三郎が三条実美*に謁して事情をのべたところ、三条実美は山縣九右衛門*に、清水清太郎が久留米藩家老に宛てた手紙を持たせて、久留米藩へ向わしました。
山縣らは大阪まで下ったところ、久留米藩主の実弟が藩主をつとめる津和野藩の藩士が追いかけてきて、長州藩をわずらわすには及ばないと山縣らに京都へ戻るよう願います。山縣らが断っため、津和野藩士もともに下りました。
5月11日真木和泉の窮地を聞き及んだ中山忠光、瀧弥太郎、赤根武人*、遊佐小六、田代直郎、三戸註蔵、名島小々男、熊野芳次郎、河島小太郎、吉見節吉らが久留米に到り、周旋しはじめました。
5月14日山縣らが久留米に到着しました。
同日、久留米藩士渡辺内膳と淵上郁太郎が鷹司関白の内旨を得て久留米に到着しました。
そして、奇しくも山口に勅書が届いた5月17日に久留米藩主は家臣に命じて真木らを解放しました。
久留米藩は山縣に真木和泉らを解放したことを伝え、和泉らの身柄を長州藩に嘱託しました。
同日、中山らは久留米を発し、萩へ戻ります。
5月19日
山縣は久留米を発し、翌日下関に着き、当地で総奉行を務めていた国司信濃*に事情を説明していたところ、同日国司が久留米藩へ使いをするよう山口に召されましたので、そろって山口へ向いました。
以下、真木和泉に関する山口との関わりを記すと、
5月21日
山縣・国司、山口に到着。のち国司は24日久留米へ発し、29日久留米藩主に謁します。
5月31日
真木和泉が恩を謝すために山口に来ました。(おそらく中河原御茶屋で)毛利敬親に謁し、敬親は真木和泉に親襲上下小袴各一国製大小刀ならびに銀五十枚を賜いました。
(5月31日、山縣は京都に戻り、清水清太郎とともに三条実美に報告を済ませました。)
6月8日
国司信濃が山口に帰り復命し久留米藩主に贈るところの糟漬鮎花布縮を呈しました。
●「*」がついている人名は、人名辞典に略歴が載っています。
参考文献:
「防長回天史」(末松謙澄著 マツノ書店 1991年)
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