山口市の幕末維新の歴史

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幕末山口諸人往来

第9回 攘夷戦争、そして奇兵隊創設〜文久3年6月1日〜7日

     

6月1日
この日、長州藩が5月10日に行った米国船砲撃の報復措置として、横浜に寄港していた米軍艦ワイオミング号が関門海峡に奇襲攻撃を仕掛けました。ワイオミング号はイギリスから購入した長州藩の軍艦壬戌丸に集中攻撃し、壬戌丸は大破します。また長州藩自家製の庚申丸・英国製の癸亥丸も沈没しました。双方死者を出し、長州藩の惨敗という結果に終わりました。この砲撃戦を通して長州藩は兵力の薄弱さを痛感します。そこで江戸藩邸にいた村田蔵六(大村益次郎)を呼び戻して外国船迎撃の準備を始めます。

一方で同日、藩主毛利慶親のもとに5月10日の米国船砲撃について、朝廷からの褒美の沙汰が下されました。その内容は次の通りです。

「当月十日夜亜墨利加船、長門国豊浦郡府中ニ停泊有之候処、大砲数発打払候趣、達叡聞候処、兼而被布告有之候拒絶期限不相違及掃攘候段叡感不斜候、弥以勉励有之、皇国之武威ヲ海外ニ可輝様御沙汰候事」(『維新史』)

6月3日

この日、藩主毛利慶親は打撃を受けた軍を立て直すため、山口政事堂に藩重臣を集めて対策を協議しました。この時、毛利筑前、宍戸九郎兵衛*、麻田公輔(周布政之助)、益田弾正*らが招集され、協議の結果、高杉晋作を起用することが決まります。晋作はというと、藩の政治方針に迎合できずに約2ヶ月前に10年の暇をもらって萩で閑居中でした。しかし晋作の才能に目をつけ、上海へ留学させる等していた藩は、この危機に是非登用すべしと彼を指名したのです。

6月4日

この日、萩へ使者山縣半蔵が遣わされ、5日に晋作は山口に着きます。そして政事堂で藩主の前に召し出されると、軍備再編について策を求められます。その場で晋作はこう答えました。

「願くハ馬関の事を以て臣に任せよ、臣一策あり、請う有志の士を募り一隊を創設し、名けて奇兵隊と云ん、…(中略)…、所謂正兵者ハ惣奉行の兵あり、之れに対して奇兵とせん」

藩主は喜んでこれを許し、至急馬関へ行って馬関惣奉行の来嶋又兵衛と共に力を尽くすよう命じます。そして12日には馬関惣奉行手元役に任命されます。

     6月5日

米艦の攻撃から4日後のこの日、今度はフランス軍艦二隻が関門海峡に襲来しました。長州藩は5月23日、横浜から長崎へ行く途中長府沖に停泊したフランス軍艦キャンシャン号を砲撃しました。その時の報復のためにやってきたのです。外国船迎撃の準備も整わないうちの出来事でした。長州藩の大砲は射程距離が短い上に、前回の米国との砲撃戦により軍艦を失っていたため、なす術もなく再び惨敗を喫することとなりました。これらの攘夷戦を通じて、長州藩は欧米諸国との力の差を見せつけられることになったのです。

6月6日
この日、下関にある清末藩御用商人・白石正一郎の屋敷に入った晋作は、ここを奇兵隊本陣とします。そして奇兵隊の定款などを示した上申書を作成しました。

6月7日

7日に河上弥市が山口政事堂へその上申書を提出すると、創設の許可を得ました。ここに、奇兵隊が正式に誕生したのです。

以上のように、奇兵隊は長州藩の攘夷戦争敗北による危機的状況のなかで必然的に誕生しました。奇兵隊は、足軽や中間、農民や町人など、藩正規軍のような上級士族以外の者の入隊が許されました。これは、少ない武士だけで戦うのではなく、庶民へも門戸を開くことで危機を乗り切ろうとしたもので、長州藩の特徴的なところです。この下級武士や民衆の力は、以後長州藩の維新達成に多大な貢献をしました。



●「*」がついている人名は、人名辞典に略歴が載っています。


【参考文献】
『修訂 防長回天史』 末松謙澄著 東京国文社 1921年
『維新史』維新史料編纂事務局 明治書院 1941年
『白石家文書』 下関市教育委員会 1968年
『高杉晋作全集』堀哲三郎編 新人物往来社 1974年
『奇兵隊日記』田中彰監修 マツノ書店 1998年
『高杉晋作史料』一坂太郎編 マツノ書店 2002年
『幕末長州藩の攘夷戦争』 古川薫著 中央公論社 1996年
『文久三年四・五・六月日記』 畑中一男著 I・S・C 1998年
『高杉晋作』一坂太郎 文藝春秋 2002年
『高杉晋作と奇兵隊』青山忠正 吉川弘文館 2007年
『明治維新人名辞典』日本歴史学会 吉川弘文館 1981年

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