山口市の幕末維新の歴史

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幕末山口諸人往来

第10回 長州藩と小倉藩の確執 文久3年5〜7月

文久3年5〜7月

◎長州藩と小倉藩は、馬関(下関)での攘夷戦争をめぐって確執を生じていきました。朝廷を第一とする長州藩と、幕府を第一とする小倉藩。朝廷と幕府、あるいはそれぞれの内部でも意見が統一しない中で、確執が生じていくのは当然のことでした。

5月17日
 この日、5月10日の長州藩の攘夷実行について、長府藩家老三吉内蔵助が山口政事堂に来て、萩藩家老益田弾正*に、「長州藩が外国船を砲撃しても、小倉藩が参戦しないために、外国船が対岸を平然と往来するのが残念です」と訴えました。そして、「各藩が朝廷の出した攘夷の命を守っているとは思えないから、外国の軍艦を長州が一手に引き受けることになると思いますが、どのようにお考えでしょうか」と聞きます。
 これに対する萩藩主毛利慶親の答えは、「幕府から攘夷期限の布告があったのだから、今まで通り打ち払いなさい」とのことでした。萩藩は、諸藩が因循であっても、長州だけは天下に先立ち攘夷の功を立て、日本全国の外国軍艦を馬関に一手に引き受けることは初めから覚悟の上でした。
 この旨を長府藩主毛利左京亮に伝えるよう、三吉は言付けられます。

5月19日
 小倉藩主が家臣の原治兵衛・飯森辰蔵を山口に遣わし、萩藩主敬親に絹縮二段を贈って、話し合いをもちました。小倉側は、異船を見かけ次第合図として大砲三発撃つことと、救援よろしくとのことを敬親に伝えました。敬親は合図のことは承知しましたが、馬関は長府藩主の領地で、警衛などは左京亮に申し付けており、萩藩からは救援の兵を差し出しているだけであるので、その他は左京亮と話し合うよう答えました。

5月23日
 長州藩がフランス軍艦キンシャン号を砲撃しました。長州藩が外国船を砲撃したのは、攘夷期限当日の5月10日にアメリカ船を砲撃したのに続いて二度目です。キンシャン号は同月17日に横浜を出港し、長崎に向かう途中の22日夜に豊浦沖に停泊しました。長州藩では23日の早朝に砲台から砲撃をしかけ、藩の軍艦庚申丸も発砲しながらキンシャン号に迫りました。キンシャン号は遁走し、翌24日、長崎に入港しました。

長州砲原寸大レプリカ(下関市・みもすそ川公園)


5月24日
 二度目の砲撃の際にも小倉藩が応援しなかったので、馬関を守ってた長州兵は怒りました。長州側はまず、萩藩士太田市之進・同野村和作・長府藩士生駒時三郎などを派遣して、小倉藩の大池金右衛門に詰問書を送り、回答を求めます。これに対して小倉藩は、幕府からは無謀過激の行為を慎むようにとの命令があったとして、長州藩と対立を深めます。

5月26日
 長州藩は、オランダ軍艦メドューサ号を砲撃しました。メドューサ号は一時応戦したものの遁走しました。長州藩にとっては三度目の攘夷戦でした。

5月27日
 勅命を第一とする長州側は小倉藩の対応に憤激し、久坂玄瑞*が上洛するのを機会に、これを公卿に訴えます。一方小倉藩は、幕府側の京都守護職会津藩主松平容保に訴えました。しかし、幕府内部でも意見は一致しておらず、結局小倉藩は朝廷から攘夷については臨機応変に対応するようにと命じられました。これは京都での久坂らの周旋によるものだと思われます。
6月12日
 久坂が、各藩は長州に応援払攘するようにとの勅文を携えて、山口政事堂に戻ってきました。

6月13日
 久坂は、馬関と小倉の様子を見てから海路上京しようと、白石正一郎宅へ行きました。また同日、防衛総奉行に国司信濃*が世子定広より任命され、馬関の本営に赴きました。

6月14日
 宮城彦輔*・赤根武人*・阪本力二は小倉の領地(大里もしくは田ノ浦)を借りようとしましたが、小倉側は応じませんでした。これは、アメリカ船・フランス船が来たときに、小倉藩は幕命を理由に傍観したので、これ以上応援を求めても無意味であると判断し、いっそ小倉の領土を借りて自ら砲台を築こうとしたためです。しかし小倉が断った大里の地は、久留米藩が小倉藩から船繋場として借りていた場所で、久留米藩は長州と同じ攘夷の立場だったので、その場所に砲台を起工することが決まります。

6月15日
 萩藩士が田ノ浦へ行きましたが、小倉は一足先に駐屯しており、長州による占領を防ぎました。彼らは白石正一郎宅に帰ました。そこには、山口から来た浦靱負の家臣芥川十右衛門・秋良雄太郎・田中弁蔵・久坂玄瑞がいました。

6月20日
 宍戸九郎兵衛*・福原越後*・浦靱負*の三家老を小倉藩家老に送り、14日の宮城彦輔らの申請に対して、「小倉藩は領地を貸すことを断りましたが、皇国御安危の時、外夷との戦争に至ってはやむを得ない処置をすることもあります、まずは話し合いを持ちましょう」と申し出ました。
 またこの日、阪上忠助・秋良敦之助が山口から馬関に行き、国司・宮城彦輔等と商議をしました。

6月22日
阪上忠助・秋良敦之助が小倉に行き、戦争の際に小倉領に兵を進めること、大里、田ノ浦に砲台を築造し兵を配備することを相談しました。小倉は、時宜によっては兵を進めることを認め、砲台築造については、現在幕府に伺いを立てているところであるから、と断っています。

6月23日
藩主慶親は、馬関での奇兵隊の活躍など高杉晋作*の功を褒め、山口に召して更に政務座役を命じました。高杉は24日に馬関を発し、26日に山口に着き、27日に命を拝します。

6月24・25日
奇兵隊は小倉藩との交渉を待たず田ノ浦を占領しました。小倉藩は争うことを避け、これを幕府に急報してその措置を待ちました。

馬関海峡・長州側から小倉を望む






●「*」がついている人名は、人名辞典に略歴が載っています。

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