山口市の幕末維新の歴史

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幕末山口諸人往来

第11回 幕府の長州糾問使と朝陽丸事件 文久3年7〜9月

 5月10日以来、長州藩は外国船を砲撃し、勅命のもとに攘夷を実行してきました。
 このことは幕府にとっては妄動と写り、長州藩へ詰問使が下される事になります。
 また、前回取り上げた様に、攘夷に協力しない小倉藩の藩領に長州の諸隊が無断で侵攻した事についても、詰問されます。
 諸隊や壮士等は自らの正義のもとに行動していましたが、それは時に藩政府でも制止し得ない状態になり、暴挙となることもありました。
 山口に派遣されてきた幕府詰問使の末路は悲惨でしたが、幕末の一幕として取り上げたいと思います。

     7月8日

 幕府は、外国船砲撃の詰責書を、萩藩の北條瀬兵衛に交付しました。
 萩藩江戸藩邸の波多野藤兵衛はこれを持参して江戸から山口に帰ります。
 詰責書の内容は、
「外国船砲撃については国の方針が定まらないうちに妄動しては国辱であるので、異船にみだりに発砲しないように」
というものでした。

     7月16日

 長州藩が小倉藩の領地に砲台を築くなどして不法侵入をしているとして、幕府は閣老の書をもって、詰問使中根一之允等を軍艦朝陽丸で馬関に派遣しました。

     7月23日

 朝陽丸が豊前沖に到着し、幕府は軍艦に同船させていた小倉藩士河野四郎、同大八木三郎左衛門に田ノ浦付近の状況を偵知させました。
 翌日馬関に移動します。

     7月24日

 朝陽丸の幕使を波多野金吾*・宮城彦輔*・入江九一*・赤根武人*が応接しました。
また、馬関に停泊中の朝陽丸中に小倉藩士がいることを察知した奇兵隊士五六十人が、朝陽丸に抜刀して乗り込みます。長州の壮士達は幕府が攘夷を決行しないうえ、逆に長州を咎めることに憤り、殺気立っていました。
 幕府側はこれを鎮めるために、閣老の書を将軍からの親書だと偽ります。
 そして小倉藩士二名は、累が幕府に及ぶことを恐れて艦艇で自刃し、遺体は海に沈められました。

7月27日

 前日に藩政府が幕使中根一之允に小郡で応接する旨を告げました。よってこの日、中根等詰問使一行は馬関を出発し、小郡の旅館(三原屋本陣・現在の西中国信用金庫小郡支店が建つ場所にあった)へ移りました。
 また、親書が閣老のものだと判明し、幕府の嘘によって壮士は更に激昂することになります。

7月29日

 中根一之允小人目付鈴木八五郎等が小郡の旅館に来て、閣老の書を萩藩刺賀佐兵衛に渡しました。
 内容は、「異船にみだりに発砲したことと、小倉藩領に人員・武器を立ち入らせていることについて、どういうつもりなのか申し立ててみよ」というものでした。

7月31日

 藩政府は前日の書を山口政事堂で披見しました。
 そして、萩藩乃美織江を小郡の旅館に遣わして中根一之允を労いました。
 また、萩藩江戸藩邸の波田野藤兵衛が江戸から戻り、8日に幕閣から受け取った詰責書を届けました。

8月4日

 萩藩国重徳次郎が中根一之允の館を訪問し、閣老の書(詰問書)に対する答弁書を渡します。内容は、「攘夷は朝命によって実行したもので、小倉藩侵入の件は小倉藩の処置についてよくない点があり心配だった為で、ご了察下さい」というものでした。

8月9日

 馬関の壮士達が、中根らが乗船してきた幕艦朝陽丸を、攘夷戦争で失った藩軍艦の代わりに借りることを強要して抑留します。
 そのため藩政府は、馬関衛将国司信濃に書を下しました。
 内容は、「押し借りしては名義が立たないので、借用交渉についてはこちらから破談して、軍艦は速やかに返すように」というものでした。
 しかし吉田稔麿はじめ奇兵隊士らによって、抑留は後々まで続けられます。

     8月13日

 11日に出萩した萩藩世子毛利定広(元徳)*が、馬関巡見と、壮士を諭して朝陽丸を幕使に返還させるために馬関に到着します。

8月19日

 馬関巡見を終えた世子定広が馬関を発し、翌日山口に到着します。
 同日、小郡津市の旅館に滞在中の幕使中根一之允の一行が襲われ、小人目付鈴木八五郎と中根の従者二人が殺害されました。鈴木は中根と間違われて殺されたもので、その首は斬奸状と共に路傍にさらされました。

8月22日頃

 夜、丸尾崎で東帰の船上にあった中根一之允が刺客に襲われ殺害されました。
 藩政府は至急幕府に報告しました。
 長州藩は幕使を殺害するという大罪を負いましたが、この問題を処理する間もなく、京都で長州藩が一夜にして政局を追われるという八・一八の政変が起きます。23日には藩政府にその第一報がもたらされ、大変な時勢の中で幕使殺害問題はうやむやになります。
 しかし、

      9月20日頃

 幕艦朝陽丸がようやく壮士から解放され、江戸へ向けて出航します。
 藩政府は壮士の抑留によって江戸に帰るに帰れない幕艦の処置に大変困っていました。
 しかし吉田稔麿が壮士の説得と幕府側の乗組員の応対を行い、それが成功したために解放に至ったのでした。
 この後も一連の朝陽丸事件について、吉田稔麿が陳弁のために江戸に派遣されたりしましたが、八・一八政変、池田屋事件、禁門の変と続く時勢に押されて、問題は解決に至らずに曖昧になってしまいました。
 しかし、朝廷・幕府はこの幕吏殺害の件を重要視して、長州藩に対して態度を硬直化させました。  


●「*」がついている人名は、人名辞典に略歴が載っています。

【参考文献】



『防長回天史 第三編下』末松謙澄 東京国文社 1921年
『防長回天史 第四編上』末松謙澄 東京国文社 1921年
『明治維新人名辞典』日本歴史学会 吉川弘文館 1981年

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