山口市の幕末維新の歴史

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幕末山口諸人往来

人名辞典


あ行


赤根武人(1838〜1866)

妙円寺の海防僧月性、吉田松陰、梅田雲浜に学んだ。文久二年江戸に出て英国公使館焼打事件に加わり、同三年奇兵隊に参加。十月奇兵隊総督となって元治元年四国連合艦隊と下関で戦った。長州藩の政務役も兼任したが、眼病にかかり辞職して帰郷。ついで高杉の下関挙兵には調和論を唱えて意見が合わず、慶応元年筑前に脱走した。その後上京して再び幕吏に捕えられたが、幕長間の和平交渉のため釈放され帰郷した。同時主戦論に固まった長州藩から幕府内通の嫌疑を受けて逮捕され、山口に護送されて鰐石河原で斬首された。


井原主計(1816〜1866)

安政6年江戸留守居となり、文久2年老中へ昇進した。八月の政変に対処して長州藩の奉勅始末を上奏のため、久坂玄瑞・入江九一らを従えて大坂に行き、再三入京を乞うも許されなかった。元治元年加伴役、赤間関惣奉行に命じられ、英艦に搭乗して横浜へ行き講和を締結した。


入江九一(1837〜1864)

安政五年松下村塾に入り吉田松陰に学び、閣老間部詮勝の暗殺計画に加わったが果たさなかった。同六年松陰の入獄中その志を受けて尊攘に奔走し、幕吏に探知され、捕らえられ投獄された。その後釈放され、文久三年正月従来の志を賞され地方足軽から士雇に昇格。同年六月高杉晋作を助けて下関で奇兵隊の創設に尽力した。元治元年上京し、七月の禁門の変に久坂玄瑞らと山崎天王山に屯し、参謀として鷹司邸内で奮戦するも、飛弾に重傷を負いその場で切腹した。


浦靱負(1795〜1870)

萩藩家老。弘化四年家老職に任ぜられて江戸当役となった。嘉永六年米使の来航に藩兵を率いて大森羽田を警備した。安政五年当職に転じ、万延元年辞職、文久二年命を受けて兵庫警備の兵を督した。同年四月に上京して皇居護衛の任に当たり、八月世子定広の奉勅東下に従い、これを補佐して江戸に行った。同三年加判役となったが、その冬一切の職を辞して領地阿月に帰郷した。元治元年の禁門の変後も革新派の黒幕として藩論回復に尽くした。


大田市之進(御堀耕助)(1841〜1871)

萩藩家臣。元治元年久坂玄瑞・来島又兵衛らと朝議復旧の事に尽力し、七月禁門の変には幕軍大垣兵と戦い、勇名をとどろかして帰国した。同年八月四国連合艦隊と下関に戦い、和議になって後、建言して山田顕義・品川弥二郎らと御楯隊を編成して総督となった。慶応二年幕長戦に芸州口に出戦して戦功を立て、翌三年参政に進んで維新の大業に尽くすところが多かった。明治二年命を受けてヨーロッパに行く途中病気にかかり薩摩で療養していたが、三田尻に帰って間もなく病死した。


大村益次郎(1824〜1869)

天保13年防府宮市の梅田幽斎に医学と蘭学を学び、翌年豊後の広瀬淡窓の門に入り、弘化3年大坂の緒方洪庵に学び塾頭に進んだ。嘉永3年帰郷して四辻で医業を開いたが、同6年伊予宇和島藩に招かれて蘭学・兵学を教授し、安政3年江戸に赴いて鳩居堂を開塾。また幕府の蕃所調所教授方手伝となり、翌年講武所教授に任ぜられた。万延元年萩藩に召し抱えられ、藩の蘭学に貢献。文久2年帰国し、西洋学兵学教授となって山口普門寺塾で兵学を教えた。ついで藩の兵制を改革し、元治元年下関外艦和議の応接掛を勤める。慶応元年軍務係となり、同2年の幕長戦に石川口の総参謀として連勝。山口明倫館兵学寮に帰り、兵学の教授に当たった。明治元年討幕軍進発のため出兵上京し、軍制改革に尽力。ついで上野の彰義隊を討伐、さらに奥羽・北越の平定に尽くす。同年7月兵部省新置の時に兵部大輔に任ぜられる。同年9月に京都で暴徒に襲われ重傷を負い、翌月死亡。



か行


久坂玄瑞(1840〜1864)

萩平安古八軒屋に萩藩医久坂良迪の三男として生まれた。吉田松陰を師と仰ぎ、松下村塾で高杉晋作と共に俊才をうたわれた。国内が幕末の動乱に陥る中で、久坂は尊皇攘夷の急進論者となり、薩摩・土佐・水戸藩の志士らと交流周旋した。高杉晋作と英国公使館を焼打ちにしたり下関の外国艦船砲撃事件に加わったりと、攘夷の気勢を上げた。しかし八月十八日の政変後長州藩の勢力が衰えたため、藩の勢力回復に努めたが功を奏せず元治元年に帰藩。藩内で京都進発の論議が沸騰する中、同年六月来島又兵衛・真木和泉らと東上し、入京の嘆願を朝廷・幕府に差し出した。しかしそれが拒絶されると大勢は強硬論を主張し、自重論を唱える久坂もその勢いに押され、ついに禁門の変の戦いが開かれた。堺町御門で奮戦したが、流弾を受けて負傷し、寺島忠三郎と共に自刃した。


国司信濃(1842〜1864)

萩藩家老。文久三年四月下関警衛の任に就き、同年五月に攘夷を実行。ついで久留米に行って真木和泉らの釈免に尽力した。禁門の変の後政権を恭順派に握られ、益田・福原両家老と共に徳山藩御預けとなり、幽閉後切腹させられた。



さ行


沢宜嘉(1835〜1873)

 

早くから三条実美や志士らと関わって攘夷説を唱え、攘夷実行の気運を醸成していた。政変後は三田尻に赴いたが、平野国臣が挙兵すると、国臣らと共に生野で挙兵した。これに敗れた宜嘉は、讃岐・伊予を経由して長州に帰り、海島に隠れた。位階を復せられた後は参与に挙げられ、長崎裁判所総督、長崎府知事などに任ぜられた。


 

三条実美(1837〜1891)

尊譲派公家の中心人物として頭角をあらわし、長州藩と提携して活躍した。文久3年大和行幸・攘夷親征を名目に討幕挙兵を企図したが、八月十八日の政変によってその計画は挫折した。長州藩へ下向した後は、同藩の庇護を受けて宿望を果たすべく画策する。慶応3年には、文久3年以来停止されていた官位を復して入洛を許され、帰京して議定に任ぜられた。その後は西南戦争をはじめとする内外の難局を処理して国運の発展に貢献した。


三条西季知(1811〜1880)

八月十八日の政変以前は、安政五年の通商条約勅許問題の処理など、国事に奔走していた。政変後は三田尻に滞留して上京陳情の機会を待ったが、禁門の変に続く長州征伐などの結果、太宰府に移された。王政復古の令が発せられてからは官位の復旧と入京の許しを得、慶応3年実美らと共に帰京した。


宍戸左馬之介(九郎兵衛)(1804〜1864)

嘉永二年大津郡代官となり、風土注進案の前大津管内分をまとめた。安政三年七月京都藩邸の都合人に転じ、梅田雲浜らと交わり国事に奔走し、文久元年大坂頭人役となり、公武間の周旋に当たるとともに、家老益田弾正の手元役となって京都護衛の任にも当たった。同三年藩主と共に帰国し、益田の用談役として撫育頭人を兼務し、ついで八月十八日の政変に上京して留守居を勤めた。元治元年禁門の変を引起し、萩の野山獄に投獄され斬首を命ぜられた。


四条隆謌(1828〜1898)

八月十八日の政変後は三田尻・山口・湯田等に滞在し、慶応元年太宰府に移り、延寿王院に滞留した。官位を復されて帰京してからは、主に軍事面で活躍した。


白石正一郎(1812〜1880)

家は海陸運送業を営んでおり、特に文久元年薩摩との交易に尽力してその用達を命ぜられた。同三年久坂玄瑞・入江九一らと交友を結び、五月の下関攘夷決行には家を挙げて砲撃戦に参加した。同年六月高杉晋作が奇兵隊を編成したとき弟と共に入隊し、資財を投じて援助した。兄弟の国事に尽くす志が認められ、藩主から特に士籍が加えられた。諸藩志士の関門を通る者はみな白石家に止宿したが、正一郎は常に志士の運動を助けた。維新後は専ら風月を楽しみ、六九歳のとき自宅で病死した。



た行


高杉晋作(1839〜1867)

天保10年長門国萩城下菊屋横丁に生まれる。萩藩八組士(大組)。藩校明倫館に学び、19歳の時に吉田松陰の松下村塾に入門。久坂玄瑞と並び松門の双璧、龍虎と称された。のち江戸昌平黌に学び、帰藩して明倫館都講、文久元年に世子定広の小姓役となる。翌年藩命で上海へ渡り、帰藩後は藩論を攘夷に転換しようとしたがならず、亡命して尊王攘夷運動に挺身、松陰門下など25名と品川御殿山の英国公使館を焼き打ちにした。文久三年、馬関攘夷戦争に際して奇兵隊を組織して総監となる。同年8・18の政変で長州勢が京都から一掃されると藩論が割れ、高杉は京都進撃を主張する急進派説得の命を受けるが失敗し京都に走ったため萩の野山獄に投ぜられた。しかし元治元年四国連合艦隊が下関を砲撃すると再度起用され、講和条約の正使となる。同年の第一次長州征伐では主戦論を説いたが保守派に敗れて脱藩。時期を見て藩へ帰ると、奇兵隊等諸隊の決起を促して藩政を握り、藩論を討幕に統一する。慶応2年には薩摩藩との間に薩長同盟を結び反幕府の態勢を固めた。同年6月の第二次長州征伐で全藩を指揮して幕府軍を各地に撃破したが、肺結核で翌慶応3年4月14日に亡くなる。享年29。墓は下関市吉田清水山東行庵。



な行


錦小路頼徳(1835〜1864)

八月十八日の政変前は急進派として国事に奔走していた。政変後長州藩内で攘夷達成のため画策したが、元治元年赤間関砲台の巡視中に発病し、同年没した。


根来上総(勢之祐)(1816〜1892)

長州藩家老。文久2年江戸留守居として公武間の周旋方を勤め、同3年国元加伴役を勤めた。また同年7月公武周旋のため上京中、鷹司関白御用を受けて帰国し、七卿の西下を三田尻に迎え、その事情を公武へ報告するため状況したが入京を許されなかった。元治元年七卿が上京する際に山口まで供奉した。ついで馬関惣奉行に命じられ、外国との講和に当たった。



は行


波多野金吾(広沢真臣)(1833〜1871)

萩藩家臣。元治元年の禁門の変に際し、恭順派藩庁のため萩の野山獄に入れられたが、慶応元年に藩論が回復して出獄。慶応二年には同年六月の幕長戦の枢機に参画し、安芸国厳島で幕使勝海舟と会見し、講和条約を結んだ。同三年九月、薩摩藩大久保利通らと討幕兵東上を協定。十月上京し、討幕の密勅を受けて帰国した。明治元年参与となり、その後も重要な役務に就いた。明治四年正月刺客により暗殺。


東久世通禧(1833〜1912)

文久2年に国事御用掛、同3年に国事参政となりしきりに尊皇攘夷を唱えていたが、八月十八日の政変に遭い、長州三田尻に西下。第一次長州征伐後は太宰府に移された。王政復古により許されて帰洛し、官位を復せられ参与に挙げられた。その後は軍事参謀、外国事務総監、神奈川府知事などを歴任した。


福原越後(1815〜1864)

萩藩家老。万延元年国元当職を文久三年二月の藩政改革まで勤め、引き続き加判役となった。同年六月領地宇部の領地改革、文武揚作興を実施した。禁門の変に戦い傷を蒙って退き、宇部に帰着した。八月益田・国司両家老と共に徳山藩に御預けとなり、幽閉後切腹させられた。



ま行


真木和泉(1814〜1864)

久留米城下の水天宮宮司。同宮は全国水天宮の総本宮。藩主有馬頼永と藩政刷新を図るも、藩主没後凋落。蟄居中の安政5年(1858)に徳川否定・王政復古の書を著し、早くから倒幕を主張す。文久2年国を脱し、上京。寺田屋事件に関わり身柄拘束され、久留米藩に引き渡される。このとき処刑されようとしたが長州藩の働きかけで解放され上京。学習院出仕となる。8・18政変で七卿とともに長州へ。武力を主張し、翌年上京。禁門の変でやぶれ自刃。


益田弾正(右衛門介)(1833〜1864)

萩藩家老。吉田松陰に兵学を学んだ後、加判役・当職・江戸当役を経て文久三年国元留守居役となり、同年七月に上京して攘夷親征を建議。八月十八日の政変では長州藩の堺町門警衛を解任され、三条実美ら七卿を伴って帰国した。翌年(元治元年)の禁門の変において征長令が発せられてから弾正は帰国し、領地須佐に引き取った。しかし政権は恭順派に握られ、福腹・国司両家老と共に徳山藩の御預けとなり、幽閉された後に幕府への謝罪として切腹させられた。


壬生基修(1835〜1906)

安政5年の条約勅許問題、和宮降嫁の実現などに尽力。八月十八日の政変後に失脚し、長州から太宰府に移され、慶応3年釈免されて帰京した。明治元年参与として国政に参画。その後も三等陸軍将、越後府知事、東京府知事などを歴任した。


宮城彦輔(1813〜1863)

萩藩家臣。文久三年五月の下関外国船砲撃に参加。同年六月奇兵隊に入隊したが、先の外国船砲撃戦に先鋒隊の戦敗を叱罵された先鋒隊士が奇兵隊の宿舎を襲撃。事件が彦輔から起こったとして切腹を命じられ、宿舎の教法寺で切腹した。


毛利元徳(1839〜1896)

徳山藩主毛利広鎮を父として生まれ、嘉永4年萩藩主毛利敬親の養子となり、安政元年江戸へ行き世子となった。明治2年に家督を相続して山口藩知事となるが、同4年の廃藩置県により藩知事を辞す。その後は第十五国立銀行頭取・同取締役などを勤め、58歳で東京高輪邸に没した。



や行


山縣九右衛門のち改め松原音三貴速(1841年〜明治43年)

八組士山縣弥九郎長男喜久槌。明倫館に学ぶ。のち洋式銃法の師範となる。諸郡代代官、用談役撫育頭人等歴任。明治以後は豊岡県権参事東京府用掛。のち教導職大講義。また廣瀬・石上神社宮司を務める。元治元年佐幕派が藩の実権を握ったときに萩野山獄で処刑された大和弥八郎(国之助)は実弟。



【参考文献】
『修訂 防長回天史 第参編 下 四』 末松謙澄著 マツノ書店 1991年
『維新史料綱要 巻三』 東京大学史料編纂所 東京大学出版会 1966年
『高杉晋作史料』 一坂太郎編 マツノ書店 2002年
『明治維新人名辞典』 日本歴史学会 吉川弘文館 1981年
『国史大辞典第十三巻』 (株)吉川弘文館 平成4年
『増補近世防長人名辞典』 吉田祥朔著 マツノ書店 昭和51年
『防長維新関係者要覧』 田村哲夫編 1995年 マツノ書店

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