山口市の幕末維新の歴史

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幕末の舞台

幕末の藩の中心地・山口御茶屋

場所:山口市中河原

登場人物:藩主毛利敬親ほか多数

時:文久3年(1863)4月16日〜慶応2年(1866)5月15日


「御茶屋・・・藩の公館で藩主参勤の上下、或は国内巡行、一族の旅行、その他幕府役人・九州諸大名の通行などに当り、宿泊に供するため交通の要衝に置かれた。一種の本陣である。萩から山口を経て三田尻に至る街道においては、阿武郡佐々並、吉敷郡山口、山陽街道においては都濃郡花岡、佐波郡三田尻、吉敷郡小郡、厚狭郡船木及び吉田に置かれたのがそれである。なお山口の湯田、大津郡深川および俵山の各温泉地にも御茶屋を設けて湯治宿泊の用に供された。」(「『山口県近世史研究要覧』石川卓美編修・マツノ書店」より引用)

 山口の御茶屋は山口御茶屋、もしくは中河原の地に置かれたことから山口中河原御茶屋とよく呼ばれています。
 現在の御茶屋橋正面の浜屋餅舗や、クリエイティブスペース赤れんがを含む広大な敷地にありました。

 一の坂川沿いにありました。
 赤れんが。御茶屋は広大な敷地でした。
 御茶屋橋を渡れば御茶屋でした。
  川の向こう、見える範囲が御茶屋跡です。

 
 元禄(西暦1688〜1704)以前にはすでに設置されており、大内氏の重臣・陶晴賢の旧邸地とその西隣の一画とを敷地として建設されたといわれています。宝暦11年(1761)の火災のときまで、台所は陶氏時代のものを使用されていたとか。
 文久2年(1862)7月6日、長州藩は即時攘夷に決し、同月24日藩主毛利敬親は攘夷実行方針を論告しました。
 文久3年(1863)3月3日、山口に赴くことが諸局へ、同月25日山口滞留を藩内へ令されました。
 4月16日、毛利敬親は萩を出て、中河原の御茶屋に入りました。
 以後、毛利敬親はここで執務を取り、長州藩を指揮しました。
 山口御茶屋に居るのは、山口新屋形完成までの仮住まいのようなものだったのですが、様々な情勢で滞在が長引いて、慶応2年(1866)5月15日までの3年に及びました。

●毛利敬親の山口御茶屋滞在年月日(「もりのしげり」より)
 
文久3年4月16日〜7月2日
 (2日〜5日三田尻茶屋滞在)
7月5日〜11月7日
 (7日〜16萩明倫館滞在。16日佐々並茶屋滞在)
11月16日〜文久4年(元治元年)1月12日
 (12日〜23日萩明倫館滞在)
1月23日〜2月11日
 (11日〜12日大田茶屋滞在)
2月12日〜4月25日
 (25日〜26日三田尻本陣滞在)
4月26日〜7月26日
 (26日〜30日三田尻の、本陣、茶屋、大専坊滞在)
7月30日〜10月3日
 (10月3日〜慶応元年2月27日萩城滞在。2月27日〜28日大田茶屋滞在。28日〜3月9日湯田茶屋滞在。9日〜11日三田尻本陣滞在。)
慶応元年3月11日〜3月26日
 (3月26日〜4月25萩城滞在。)
 (*慶応元年4月10日〜19日まで元徳、中河原御茶屋滞在)
4月25日〜慶応2年3月24日
 (*慶応元年5月21日〜6月26日まで元徳も中河原御茶屋滞在)
 (3月24日〜28日の間、三田尻・大道・秋穂・小郡滞在)
3月28日〜5月15日
5月15日新館に移る。以後、新館が滞在場所となる。

※文久3年5月11日に、高嶺御屋形という名称に改められた。
 同年6月18日執政の府を高嶺御屋形に設け、山口政事堂と称した。
 元治元年12月19日、再び御茶屋に改称した。


 この期間、様々なお触れがここから発せられました。

 文久3年(1863)10月1日、毛利敬親は勤王の大義を諭告しました(もりのしげり)。
 同年12月11日毛利敬親は、諸隊の長を召集し、その部署を定めました(防長回天史)。また、「奉勅始末書」を藩内に公示しました(もりのしげり)。
 元治元年(1864)9月9日、毛利敬親は諸隊に挙藩一致を告諭すしました(防長歴史暦)。
 慶応元年(1865)3月23日、藩論が武備恭順に決しました(もりのしげり)。
 同年5月22日、藩内に討幕方針が公示されました(もりのしげり)。
 同年5月23日、文武興隆・兵制改革が令されました(もりのしげり)。
 同年6月27日、征長軍待敵の方策五カ条が公布されました(防長歴史暦)。
 同年7月4日、諸郡に招魂場建設が令されました(もりのしげり)。
 慶応2年(1866)2月12日、毛利敬親は、諸臣に対幕戦備を令しました(もりのしげり)。
 同年3月9日、蔵版局において長防臣民合議書が版刻され、封内に頒布されました(もりのしげり)。
 同年4月20日、毛利敬親は第二次長州征伐にたいして、待敵の令書を下しました(防長歴史暦)。
 同年4月27日、毛利敬親は、幕府軍に対して、応戦の部署を定め軍令状を発しました(防長歴史暦)。

 かくのごとく、攘夷実行のために移った山口ですが、その後は幕府軍に対する抗戦の拠点となりました。
 攘夷実行の知らせや、八・一八政変の知らせ、池田屋事件、禁門の変の結果、下関戦争の敗北など、様々な知らせが、ここにいる藩主のもとに集まりました。
 そのたびに驚愕し、必死に対策を練った、そういう場所です。一時期藩の重役を務めて中河原茶屋に通勤した高杉晋作によると喧々諤々の議論が交わされていたそうです。
 他にも、高杉晋作が呼び出されて奇兵隊結成を上申したのも山口御茶屋ですし、英国留学から帰国した井上馨と伊藤博文が攘夷を止めるために説得をしたのもここです。
 また、坂本龍馬が藩重役と会談したのも、真木和泉が藩主に抗幕を説いたのも、ここです。
   幕末の様々なドラマがここで繰り広げられたのです。
 

 昭和55年に再建された銅像です。
 亀山公園に毛利敬親像があります。
 山口御ちやはしと彫られています。
 同公園にある石の欄干は昔の御茶屋橋のものです。

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