山口市の幕末維新の歴史

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幕末ドラマチック山口

志士の会合場所・十朋亭(じっぽうてい)

場所:萬代家 十朋亭

登場人物:周布政之助、加藤有隣、来嶋又兵衛、久坂玄瑞、佐久間佐兵衛、中村九郎、井上馨、伊藤博文ほか

時:文久3年(1863)4月〜


 萬代家は、寛政年間初期(1780年頃)に、醤油の商いを始めました。3代目利兵衛(1775〜1838)のときに大いに栄えました。
 十朋亭は、利兵衛が裏の離れ座敷として、享和年間(1800年頃)に建てたものです。

 
十朋亭内の説明看板より

 十朋亭という名は、のちに関西の儒学者のリーダーとなる篠崎小竹が、若いころに滞在していたことがあり、そのときに名付けられたものです。易経の「益之。十朋之亀、弗克違。元吉。」(これをえきす。じっぽうのかめ、たがうあたわず。もときち。)に由来します。
 文久3年4月、藩主毛利敬親は、萩から山口へ藩庁を移しました。
 そのために多くの役人が萩から山口へ移りましたが、急なことだったので家屋敷の用意ができなかったことから、山口の民家の中から役人の宿泊所を選びました。十朋亭はその一つです。
 このとき、それまで座敷二間しかなかったのを、土間と上りがまちの部分を増築したようです。
 当時は座敷の前に立ち木が植えられた庭があり、その庭は母屋につながっていたそうです。

 
十朋亭内の説明看板より

 最初に宿泊したのは、藩の重臣である周布政之助と云われています。
 周布は5月9日に山口に入りました。その時から矢原の庄屋・吉富宅の離れを宿泊所としていましたが、何分にも山口御茶屋から歩いて1時間の距離なので、御茶屋に近い十朋亭も借り受けたのだと推測します。
 周布は9月2日に、おもうところあって大阪へ出奔します。

 折よく空いたので、9月3日、水戸藩の儒者加藤有隣が十朋亭に入りました。加藤は、のちに湯田に出来た三条実美の寓「何遠亭」の名付け親になります。また宮野金古曾に私塾を開きました。
 その加藤が、日記に当時の十朋亭の様子を書き残しています。(笠間稲荷神社編「榊陰年譜」より)
「三室並び構へて至て清楚可愛。床上額字は頼惟寛(※頼山陽の父)之書『徳日新萬邦惟懐』とあり。又書幅は、尾二洲(※尾藤二洲。寛政三博士の一人)の書にて『人閑知晝永花落見春深』との十字也。畫壁は米家(中国の絵画様式)の山水にて、逸峰名草芳(※名草逸峰。尊王攘夷を唱えた紀伊の画家)の畫、『烟雨糢糊裡、有無前後山、忽然失行路、四面水潺湲』と云ふ賛あり。」

 次いで利用したのは久坂玄瑞でしょうか。万代家には久坂玄瑞の常用湯飲み茶碗と、手紙が残されています。手紙を意訳すると、
「今、真木和泉先生が来られました。後で一緒に参りますから、しばらくの間外出しないでください。
 中村九郎様 桂小五郎様 久坂玄瑞」
 文久3年に久坂が山口に居たのは、9月23日から11月8日までですから、この間のことと推測します。
 久坂玄瑞、真木和泉、中村九郎、桂小五郎の4人は、長州藩が朝廷から排除された八・一八政変の経験者で、このとき4人とも山口に居ました。今後のことを相談したとおもいます。

 加藤有隣の日記を見ると、中村九郎・佐久間佐兵衛もここに泊まったことがあるようです。
「元治元年
 2月 5日 佐久間佐兵衛の対馬行を送る宴を、万代家後亭で。
 3月 5日 中村九郎君・有福君と、萬代屋にて一会。
 4月13日 佐久間氏昨夜、萬代屋へ到着に付一面会。」

 周布政之助は10月5日から翌年6月まで、再び山口御茶屋で勤務を始めます。次の出来事は、おそらく元治元年(1864)の2月頃のことのようです。
「万代利平の所に部屋がござります、それに周布様は宿を取ってござる、それに来島又兵衛と云ふ人が待って居らるる。私が供をして帰りますと、先づお互ひにドウかと云ふやうな御言葉で、暫くするとお互ひに烈しい議論で周布様が、其方が京都へ行っても命捨てに行くのみであるから行かぬが宜しいと云はれる。来島様は、是非遣らせて貰ひたいと云ふ事で、詰り金を出して遣らうから行くならば行けと云ふことになって、来島様の方では、私は其事を貫かねば帰る積りでないと云ふ事で御出での事になりまして」(山口県文書館所蔵「松永伊三郎談話」)
 加藤有隣の日記に、そのことを伺わせる記述があります。
「2月22日 帰路萬代屋を過り、来島先生来着の由故一面会。
 2月23日 来島氏政事堂へ出る。夕刻酔臥。夜、萬代屋に至る。来島君返らず。
 2月24日 夜、来島翁に謁す。毛利出雲二百騎、来島遊撃隊より二百騎、東発決策の由。
 3月 4日 午後、萬代屋において来島君、宇喜多君と顔を合わせる。夕刻来島帰寓。今日遊撃隊東発。」
 情勢の変化でこのとき来島は上京せず、結局単身で4月に上京します。来島は八・一八政変で京都から追い出されたことを屈辱としており、5月に帰藩すると藩の名誉回復の為にも出兵を唱え、その結果7月に禁門の変が起きます。
 6月14日、周布は、野山獄中の高杉晋作を訪ねたことで逼塞を命じられました。

 6月24日、井上馨と伊藤博文が英国留学から帰国、藩の攘夷を止めるために、伊藤曰く、
「山口に着いて萬代利右衛門と云う町人が居る其家へ二人共行て泊つた」(末松謙澄編「維新風雲談 : 伊藤・井上二元老直話」より)
 そして十朋亭に滞在し、山口御茶屋で藩主をはじめとする重役に、攘夷の不可を説いたのでしたが、30日、藩はあくまでも攘夷を行うと決定されました。
 この伊藤は明治以後も万代家と深く交わっており、数々の手紙が残されています。
 その親交をよく表わしているのが、「伊藤博文・井上馨 大杓子」(山口市歴史民俗資料館所蔵)です。
 明治28年、日清戦争のさなか、6代目利七が山口町長と共に広島へ慰問に訪ねたときのお礼として、伊藤博文から送られて来たものです。
 明治29年、井上馨が還暦祝いに帰郷したときに、5代目利兵衛が席をもうけたさいに大杓子の話が出て、それならばと自作の漢詩を書き添えられました。
 大杓子に二人の寄せ書きというのは他になく、大変珍しいものです。

 とまれ、この十朋亭には、幕末には他に桂小五郎、高杉晋作、山県有朋、富永有隣、白井多助、坪井九右衛門、土佐藩の土方久元、津和野藩の福羽美静などが出入りしていたと伝えられています。また、維新後は、杉民治(吉田松陰の兄)、久保断三、林喜八、正木基介が居住していたと昭和8年の山口市史に掲載されています。
 【以上、参考文献:「山口市史跡十朋亭」(発行:萬代一平、編集協力:NPO法人デジタルアーカイブやまぐち、平成16年)】



右に曲がって通路を抜けます。
大殿大路から入ります。
二間。ここに幕末の志士が。
外観です。
左が展示室です。
当時のままの屋内。
展示室には説明板があります。

■十朋亭(山口市指定文化財)
住所:山口市下竪小路112番地1
観覧料:無料
開館時間:午前10時〜午後5時
定休日:火曜日及び8月13日〜17日
問合せ先:大路ロビー(083-920-9220)
     ※十朋亭の向かい側にあります。

※見学希望の皆様へ
 十朋亭周辺整備に伴い、平成28年10月3日より平成30年10月ごろまで十朋亭と杉私塾の公開を中止します。
 平成26年8月に幕末維新関連史跡・十朋亭周辺の土地・建物を萬代家より寄附いただきました。
 平成30年に迎える明治維新150年に向け、これら一帯を「山口市の幕末・明治維新を学べる施設」として整備します。
 このため、平成28年10月3日より平成30年10月ごろまで十朋亭・杉私塾の公開を中止します。
 再公開の詳しい日程は決まり次第お知らせします。

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