山口市の幕末維新の歴史

HOME >> 山口市の幕末維新の歴史|幕末の舞台 >> 錦の御旗製作所跡

幕末ドラマチック山口

錦旗が生まれた場所・錦の御旗製作所跡(にしきのみはたせいさくじょあと)

場所:山口市後河原

登場人物:品川弥二郎ほか

時:慶応3年(1867)冬


 国道9号線と一の坂川が交差する新伊勢橋から、上流へ向かって次の橋のたもとに、錦の御旗製作所跡の石碑があります。
 錦の御旗は、明治元年の鳥羽伏見の戦から始まった戊辰戦争のときに官軍の印として翻り、その旗をみたり、噂をきいた幕府軍は、朝敵となることを恐れて戦意を喪失したといわれています。

橋のたもとに石碑。
一の坂川です。
史跡地は一区画のみ。
ひとつばし、といいます。
説明看板もあります。
石碑は戦前のものです。


 山口県立山口博物館に、「錦旗余片額」が所蔵されています。

 
錦旗余片額(山口県立山口博物館所蔵)

 


 この額にある文言を紹介します。
「錦旗余片由来
(旧漢字・カタカナ文を新漢字・ひらがな文に変更。また段替え・句点を挿入)

 慶応三年 朝議討幕に決するや岩倉右府は大久保利通品川弥二郎を召し之を薩長両藩に伝ふるに当り嘱するに錦旗製作の事を以てす。
 両人欣諾して藩邸に帰り大久保は直に大和錦及紅白緞子数匹を購入し品川に送り携て長州に帰らしむ。
 品川は広沢真臣世良修蔵等と共に山口に帰り藩主に謁し討幕の 朝旨を伝達すると共に錦旗製作の内命を言上し許可を得たり。
 因て山口石原小路諸隊集会所に於て之を製せしむ。
 然れ共此の事たるや当時の大秘密に属し諸隊集会所の如き外人の出入頻繁なる家屋にて裁縫するは漏洩の虞ありとし水の上養蚕局中御下りの間と称する一室を以て錦旗製作所とし萩の人岡吉春郎を前陸軍大臣岡市之助の父を主任とし約卅日間詰切り岩倉右府秘書官玉松操の作りし錦旗図と大江匡房所著の 皇旗考とを参照し日月の標章ある錦旗と菊花章を繍せる紅白の御旗とを完成せり。
 同年十月十四日 朝廷より薩長代表者たる大久保利通広沢真臣を召され討幕の密 勅を賜ふ。
 此の時錦旗は実物未た到着せさりしに因り目録を以て授与せられたり。
 明治元年幕軍の京師に入らんとするや伏見鳥羽に於て薩長軍と衝突す。
 此の時嘉彰親王征討大将軍として出軍したまひ山口に於て製作せし錦旗は始て陣頭に翻りしなり。
 品川作の俚謡中「宮さん々々御馬の前にひら々々するのはありや何じや」云々是れなり。
 其の後有栖川宮熾仁親王征東大都督に任せらるゝに当り節刀と共に賜ひたるは此の錦旗なり。初め山口にて製せし錦旗は二?にして其の一は京師に奉送し、他の一は諸隊集会所に出入せし柴垣弥右衛門の家に伝はり明治九年弥右衛門寡婦政は之を兵部省に納む。
 上に掲くる錦帛は錦旗裁調の余片にして柴垣夫婦は之を実子園女に伝へ本館は園女より譲受けたるものなり。」
 岡市之助が陸軍大臣を辞めたのが大正五年なので、それ以降に書かれたものです。

 また、明治38年3月7日付防長新聞掲載記事を紹介します。読みやすいように書き直しています。
「水の上(製作所附近の地名)在住の柴垣弥壮さんの談話。
 慶応元年黒田清隆が道場門前山城屋に泊まり、薩長で幕府を討とうという約束ができる。
 倒幕のときは幕府に朝敵という名をつけなければならない。同時にこちらが官軍であるから錦の御旗がなくてはならぬ。
 ということで、朝廷に錦の御旗がないか探ったけれど名ばかりで実物がない。
 では長州藩が作ろうと、ひそかに京都から材料を取り寄せた。そのときの錦の値段が300両。
 この錦旗の製作はひそかに行われ、広沢真臣、木戸孝允、柏村が知っているだけ。隊で主にやったのは品川弥二郎、世良修蔵、大田市之進。
 当時、父・弥兵衛が石原小路の諸隊会議所(談話当時熊谷家)を与かっていた。或る日世良さんがお前の家で錦旗を作らせてほしいとやってきた。しかし家には僕も下婢もいて秘密に出来ない。そこで父が考えたのは水の上にある養蚕局(談話当時大中家)。
 慶応三年秋のことで、ちょうど蚕を買っていない。家番が居たけど出して、萩の岡芳春という細工人を入りこませた。四方に竹垣を結い、出入を差し止め、食事は弥壮の姉・園子が石原小路から運んだ。
 一ヵ月後、ようやく出来上がった。最近までその家の戸板に日月の張り跡が残っていた。
 できた旗は、長さが約一丈五尺位、幅は錦を三枚あわせたので四尺五寸ばかり。なので下は三枚ばらばら、上は縫いあわせて、表に金で日をあらわし、そのうえの二つ引きが赤セイゴ、裏が銀で月、二つ引きが白セイゴ。そのこしらえで二つできた。
 できあがったのはすぐに箱に別々にいれて床の間にそなえ、萩から神官をよんで祓いをさせた。誰も中に何が入っているか知らなかった。
 翌明治元年1月が鳥羽伏見の戦い。すでに一つは押し立てていったもので、そのあと江戸攻めということになり宮様が持ってでたのがその旗。断ち切れはこの通り保存している。牡丹に七宝唐草のつなぎ模様で、地色が赤。この旗は宝庫にあるだろう。
 もう一つはそのまま弥壮の家で預かっていた。
 明治7年前原が野心を抱いているのでこれにとられたら大変と山県有朋が気づき、もう一つの旗を探させたが誰もありかを知らないので、当時ドイツにいた品川に問い合わせると、柴垣の家にあるという返事。
 そこで岡芳春を使者にたてて来たが、弥兵衛は、預け主の世良が奥州で戦死しているから品川さんが来なければおいそれと渡されない、と返答。
 そこで、弥兵衛は老齢だから上京は無理だろうと、弥壮の兄・善蔵が出かけて陸軍省の武庫に無事おさめた。
 あずかっている間に脱隊騒動があり、浪士が石原小路の家に乱入したときは困ったが、旗だけは隠しおおせ、旗竿は切りくだいて風呂焚きにした。いしづきだけはこのとおり保存しているから、京都の尊攘堂に納めようとおもう。
 この苦心についてそののち陸軍省から、永年の間貴重の品保護候段奇特に付き金百円を賜うという書き物と金を頂いた云々。」

 この話に出てくる断ち切れが、この額の錦旗余片とおもわれます。
 錦の御旗はこれ以外にも幾種類も作られていますが、製作所で作られた錦の御旗はまだ見つかっていないようです。

HOME | ↑ このページのトップに戻る |