山口市の幕末維新の歴史

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幕末の舞台

諸隊の雄・八幡隊結成場所

場所:山口市八幡馬場

登場人物:久坂玄瑞、堀真五郎ほか

時:文久3年(1863)秋


 八幡隊は、「はちまんたい」でなく、「やはたたい」の読みが近年通説となっています。
 八・一八政変の後、帰藩した堀真五郎(9月5日帰藩)と久坂玄瑞(9月23日帰藩)などが語り合って創設された有志隊です。
 山口の今八幡宮の神主宅で結成されました。
 このことについて、堀真五郎が晩年記した回顧録「伝家録」には、下記のようなことが書かれています。

「三条卿らが西下したあとは、朝廷と我が藩のあいだにあたかも一大障壁が築かれたかのようで、皇政の復古は兵力に依頼するほか望のない形勢となった。
 そこで久坂義助(玄瑞)と相談し、山口今八幡宮の馬場に、神主某の宅を借りて神典取調所と称し、久坂を所長とし、士庶の区別なく、有志者を募った。
 応じるものを数えたら百人になったであろうか。
 兵器糧食は藩から配給された。
 神典取調所をあらため仮に神威隊と称し、さらにいろいろと考えて八幡隊とあらためた。
 ときに久坂は藩府に入って有司の班に加わった。
 以前に京都で中村九郎が私に藩籍に入る事を勧めたことがあったが、私は、藩籍外に在って尽力したほうが利があると断った。たとえ大失敗しても表面のかかわりあいは藩に及ばないからだ。しかし今や形勢が一変して、前に言ったことを固辞する必要がなくなったので中村の言うことに従った。
 よって八幡隊の総管を命ぜられた。
 12月11日諸隊の人員が定められ、八幡隊は百人とされ、山口に屯在すべきことを命じられた。
 このときの藩主の親書がある。いまも大切に所蔵しているもので、久坂の筆にかかわるものである。
 内容は次の通り。
『いま皇国は多難につき、志気の正しいものはあちこちで奮発し、外患をはらい、皇運の挽回をともに謀っているとき、国中の有志者は正気団結し、要地に駐屯した。隊中の規則を厳密に立て、国力を衰弱させず、国政はますます興起させ、宿志のとおり天朝へ忠節が達するようにするように。諸隊においてこのたび申しつける条令は、みなが固く守ることによって、それぞれにおいて忠勤者をひきだすことが本懐である。』」

 このあとの八幡隊の行動を以下に紹介します。
 まず、12月24日、秋穂浦へ出張を命じられ、元治元年2月に秋穂に転陣しました。
 2月8日秋穂浦海防につき台場築造を命じられます。
 6月、八幡隊のうち50人が上京し、禁門の変に参加。
 7月15日、秋穂に築造された長浜台場・花香台場で大砲の打合い稽古。
 9月13日、海辺の砲戦を取りやめ、陸戦に代える命があり、宮の前の川端に台場を築きます。
 11月15日三条実美ら五卿の長府転陣につき、守衛として山口発足。
 12月19日奇兵隊諸隊とともに伊佐滞陣。藩内訌戦に参加します。
 慶応元年4月22日、第二奇兵隊脱走事件に呼応して脱走未遂事件発生。首謀者5人斬首。
 6月25日、朝日山招魂場の棟上式を行います。この招魂場は秋穂に駐屯し続けている八幡隊の発起によるもので、築造には小郡宰判の農民などが従事しました。この日は、萩の椿八幡宮宮司青山上総を招き、秋穂八幡宮も全員参加。昼は煙火数本、夜間も花火数十打ち上げるほどの大賑わいでした。
 招魂場の祭神には、禁門の変で戦死した寺島忠三郎(八幡隊参謀)、弘勝之進(八幡隊書記)、有吉熊次郎(八幡隊小隊長)【いずれも松下村塾生】など。
 慶応2年、四境戦争に於いては小倉口などで戦います。
 慶応3年2月21日、集義隊と合併して鋭武隊と改称し、戊辰戦争に出陣しました。

 山口の産土神社の今八幡宮です。
 八幡隊屯所跡です。
 門は当時からのものです。
 今八幡宮の正面にあります。
 バス停「自衛隊前」で降ります。
 現在は今八幡宮社務所です。


 堀真五郎は、天保9年(1838)に萩の溝部横丁(明倫館のそば)に生まれました。晩年は山口市小郡に住み、墓は小郡下郷の尾崎墓地にあります。
 堀家は萩の妙玖寺の臣(陪臣)の家柄でした。父は江戸で尊円流の書法を学び、塾を開いていました。
 17歳で父を亡くし、20歳で母を亡くしています。生徒たちの願いで塾を継ぎましたが、生活は苦しかったようです。
 幼馴染の品川弥ニ郎と野村和作(靖)が松下村塾に入らないかと勧誘に来ましたが、母の喪中であることから、断っています。
 万延元年(1860)、22歳になった真五郎は、塾をたたみ、家産を売却し、その金で、近隣各藩の形勢を視察し、同志を求める旅に出ました。誰に頼まれたわけでもない旅です。中国地方を旅し、翌年旅費が尽きたところで帰郷しました。
 帰郷してからは松下村塾に入って、住み込みで素読をさずけ、筆耕料で生活費を稼いでいました。
 このとき、すでに吉田松陰は亡く、死後の門人といったところですが、志を同じくする者として、松陰門下生とともに行動するようになりました。
 主として松下村塾党と他藩の同志者との交渉人といった役目を担い、九州や彦根などへも旅しています。
 長井雅楽暗殺未遂事件や、英国公使館焼打、吉田松陰の遺骨の改装などにも関わっています。
 八・一八政変のときも京都にいました。様子を探るために残っていましたが、9月5日、山口に帰着しました。
 このあと八幡隊を創設します。
 実は22歳のときの旅は藩の許可をとらず、脱藩ということで藩籍をなくしていました。そのほうが自由に動けて藩に迷惑をかけないという判断だったのですが、八幡隊創設の時に藩籍に戻りました。
 その後は八幡隊の総督として、総督が位の高い他の武士に代わった時も実質的なリーダーとして、隊を運営しました。
 堀真五郎は八幡隊とともに藩内訌戦や四境戦争、戊辰戦争を戦いました。
 明治元年、箱館権判府事に任命され、一人函館へ移りました。ここで榎本武揚らの旧幕府軍に攻められ、青森へ逃れました。このことで新政府からの評価が落ち、しばらく無役となりました。
 明治8年、山田顕義の誘いで判事となり、以後は各地の裁判所長を歴任、明治23年大審院判事に昇進しました。また貴族院議員にも勅撰されています。
 小郡に住み始めてからは、地元の神社について調べて「中領八幡宮来歴推考録」を著しています。
 山口市小郡文化資料館には、堀真五郎の書など史料が所蔵されています。

 

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