山口市の幕末維新の歴史

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幕末の舞台

晋作の住居地・江良

場所:山口市江良

登場人物:高杉晋作

時:文久三年(1863)9月〜10月

 高杉晋作は、文久3年9月から翌年1月まで、山口御茶屋に勤務していました。この間、山口に居住していましたが、そのうちの一か所が、山口市江良です。
 同年9月27日に萩の両親に宛てて書いた手紙にそのことが書かれています。
「山口私寄宿処ハ江良村静間某之処ニて格別入用之人も無之候故、断然御定候。立小路ヲ去事十四五下計、頗御閑静之場所ニ御座候。家も手細く小シンマリトして住居も随分宜敷御座候。白雲野鶴之■朝暮ハ被思出候。私之幽栖之処ニ御座候。」(「高杉晋作史料第一巻」一坂太郎編 マツノ書店)
 大意は、「私が寄宿しているところは江良村の静間某のところで、とくにその家が必要という人もないので、断然ここに決めました。竪小路から1.5kmいったところにあり、とても静かな場所で、家は手狭く、こじんまりとして、住居は随分いいです。白雲野鶴の■で、朝に夕に思い出されます。私の隠遁場所です。」
 

江良村は狭いデルタ型谷底平野です。
「吉敷郡山口宰判図(明治14年)」より。
当時、左の家が最奥地の家でした。
正面に山肌が立ちはだかります。
萩往還はあの尾根の向こう。
両側を尾根に挟まれています。

 文久3年3月高杉晋作は十年の暇を許可され、萩で隠居生活を始めました。しかし6月外国船との戦いに藩が敗れたため、山口御茶屋に居た藩主に呼び出され、何か良い策はないかと尋ねられ、奇兵隊創設を進言しました。すぐに晋作は下関で奇兵隊総督および政務座役に任じられ活動していましたが、8月16日奇兵隊員が先鋒隊員を殺害する教法寺事件が起こり、責任を取って辞職しました。
 そのあとで山口に来て政務座役に再任されましたが、藩政府内のごたごたが落ち着いたので御役御免を願い出ました。十年の暇を再開して江良でのんびりと隠遁生活したいなとおもったようです。
 けれども毛利元徳はほっとかず、晋作は元徳の奥番頭役に任じられました。そして萩から妻が同居のために出てくるにおよんで、江良の家では狭いので、10月に別の場所へ引っ越しました。
 江良で過ごしたのはわずか一ヶ月ばかりとおもわれますが、ほんのひとときでも晋作の心を癒した土地ということで、いまでも江良からはのんびりと流れていく白雲が眺められます。

この穏やかな眺めを晋作は好んだ。
貴舩神社。鳥居は寛政11年(1799)。

 当時江良村で一番奥にあった家の近くに、貴舩神社があります。水の神を祀る神社です。地元の人の話のよると、昔江良は水害がひどく、大雨の日には山から鉄砲水がたびたび起きたので祀ったということです。
 晋作もここに参ったことがあるやもしれませんね。
 江良は当時農村地帯で、現在もその面影が残っています。一度、足を運んでみてください。

◎文久3年9月〜10月の高杉晋作の年表
■9月2日:奇兵隊、残らず秋穂二島村(現山口市)に転陣を命じられる。
■9月5日:奇兵隊とともに秋穂へ出航。
■9月8日:奇兵隊秋穂転陣完了。寺々に分宿。
■9月9日:高杉が、奇兵隊による武力行使を示唆し、藩庁、毛利・前田・周布を復職。
■9月10日:政務座役に再任。
■9月15日:奇兵隊総督を免じられる。後任は河上弥一と滝弥太郎。
■9月16日:お使いで萩に帰る。
■9月20日:山口より三田尻招賢閣に赴き三条実ともに謁し、元徳が上京予定であることを伝える。このことが、晋作が千人の兵を率いて大阪城を攻めるという噂をよぶ。また真木和泉の「三事草案」起草を諮られる。
■9月27日:風邪で休勤届だす。また正義派が藩政を回復したのでお役目御免を願い出る。江良村から両親へ手紙を書く。
■10月1日:毛利元徳に急に呼び出され長髪のまま出る。上洛会議にも参加する。この日、政務座役を免じられ、知行160石を給せられ奥番頭役(世子公内用掛、世子公夫人裏年寄)を命じられる。
■10月2日:両親へ手紙で近況を知らせる。母親が山口に来るなんて嬉しい、山口はとくに見物する所もないけどちょっとは気がまぎれるだろう云々。
■10月9日:父へ手紙。近況として、母道子と妻雅子と妹光子が、中間の繁作を伴って、山口の晋作のもとに滞留。興隆寺・大神宮等々神社仏閣を見物した。 また父が若御前様御裏年寄役を引退したので隠居できてうらやましいと書く。こちらは「廟堂之論も、老練先生は因循に陥り、勇豪之士は血気に流れ、議論一統不仕」と愚痴をこぼす。
■10月16日:山県有朋に病気見舞いの手紙を書く。
■10月17日:七卿上京一件切迫につき、小座敷で晋作他8名が集められて会議。
■10月19日:父に代わって若御前様御裏年寄役を命じられる。父に手紙、吉川経幹に山口に来るよう催促するための使者を命じられ、翌日出立すると。
■10月20日:早朝、使者として吉川公に会いに岩国へ赴く。
■10月21日:昼九つ時、宮市(現防府市)に不審者(生野の変の水戸藩人2人・筑前人2人)が宿に滞在していることを町奉行に通報。のち捕えられ、萩に送られる。
■10月22日:岩国着。吉川公に山口に来て上京に尽力するようお願いするも断られる。
■10月24日:岩国発。
■10月26日:山口に帰り着く。
■10月30日:「鴻城鰐川村舎」から、母が萩へ帰宅するにつき、公私の事情を記した長文の手紙を父に書く。舅の井上と相宿するよう言われ大変うれしく、早速引っ越しました。このころは二番御番で留守が多いので都合よかったです。井上外父もこのころは出張で留守が多いです。お借りしている大小具足箱そのほか、だんだんと自前で調達してきましたのでそろそろお返しできます。先日預けた二十両は、萩の草庵の購入が上手くいかなかったら、すぐに送ってください、昨年江戸でこしらえた借金を友人に返したく。毛利登人は最近足痛で引きこもっています。前田孫右衛門は風邪で引きこもっています。もっとも前田は先日周布政之助と激論し、不満があるようです。大先生たちの喧嘩には困ります。しかし議論は前田が正しいようにおもいます。周布はちょっとおかしいです。また私の名前が幕府の探索人になっており改姓名しようとおもいます。祝部太郎とか西浦松助とか十郎はどうでしょう。云々。

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