山口市の幕末維新の歴史

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幕末の舞台

井上馨遭難の地

場所:山口市中園町

登場人物:井上馨、所郁太郎、吉富簡一、児玉愛次郎

時:元治元年(1864)9月25日


 小郡宰判の大庄屋である林勇蔵は、そのとき上司であった小郡代官の井上聞多(馨)遭難について、こう書き記しています。
「九月廿五日午後六時頃政治堂御下りを讃井袖解橋より少し上、御旗善右衛門宅辺にて二人出で、両手を捉へ『井上聞多殿には候はずや』と問ひかけ候故『聞多』と御答相成候処、両人して押倒し、後ろより又一人斬りつけ、腰に一刀首に一刀の重傷を負はせたり。小郡津市の者仲間(ちゅうげん)浅吉御供、亦斬りつけられ候ひしかども幸に刀届かず、明屋敷へ遁れ、権現バナの方より井上御屋敷へ御注進申上候。御屋敷其節今の野上医師宅、御本宅は三條様御住居に付、これは御借宅に候。悪徒最早仕遂げたりと心得逃げ亡せ候故、一本松の百姓家へ御自身出相成其者より御宅へ連れ届け候。」(小郡郷土研究会刊行「維新史料 大庄屋林勇蔵」)
 のちに初代外務大臣や大蔵大臣を歴任した井上馨は、幕末の元治元年(1864)9月25日、帰宅途中に襲われて瀕死の重傷を負い、あやうく命を落とすところでした。
 遭難したのが袖解橋付近であったことから、「袖解橋の御難」「袖解橋の変」と言われています。
 この事件については、昭和8年から19年まで、国民学校国語教科書『初等科國語八』に「母の力」と題して紹介されており、戦前は誰もが知っている有名な話でした。
 以下に紹介します。(「近代デジタルライブラリー」掲載本参照)

   「母の力」

 元治元年九月二十五日の夜である。
 あと四年で明治維新(ゐしん)の幕が切つて落されようといふ時だ。天下の雲行きは、ほとんど息苦しいまでに切迫してゐる。
 周防(すはう)の山口では、今日も毛利侯の御前會議で、氣鋭の井上聞多(ぶんた)が、反對黨を向かふにまはして、幕府に對する武備を主張した。堂々としたその議論に、反對黨は、ぐうの音も出なかつた。
 その夜である。
 下男淺吉の提燈(ちやうちん)にみちびかれながら、聞多が、山口の町から湯田の自宅へ歸る途中、暗やみの中に待ち受けてゐる怪漢があつた。
「だれだ、きみは。」
 と、それがだしぬけに聲をかける。
「井上聞多。」と答へるが早いか、後に立つた今一人の怪漢が、いきなり聞多の兩足をつかんで、前へのめらせた。すかさず第三の男が、大刀を振るつて聞多のせなかを眞二つ。
 それを、ふしぎにも聞多のさしてゐた刀が防いだ。うつ向けになつた際、刀がせなかへまはつてゐたのである。それでも、せ骨に深くくひ込む重傷であつた。
 氣丈にも聞多は立ちあがつて、刀を拔かうとした。すると、一刀がまた後頭部をみまつた。更に、前から顔面を深く切り込んだ。
 ほとんど無意識に、聞多はその場をうまくのがれた。あたりは眞のやみである。かれらは、なほも聞多をさがしたが、もうどこにも見つからなかつた。
 多量の出血に、しばらくは氣を失つてゐた聞多が、ふと見まはすと、そこはいも畠の中であつた。からだ中が、なぐりつけられるやうに痛む。何よりも、のどがかわいてたまらない。
 向かふに火が見える。聞多は、そこまではつて行つた。それは農家のともし火であつた。
「おお、井上の若旦那樣。どうしてまたこれは。」
 驚く農夫に、やつと手まねで水を飲ませてもらつた聞多は、やがて農夫たちの手で自宅へ運ばれた。
 淺吉の急報によつて、聞多の兄、五郎三郎は、押つ取り刀でその場へかけつけたが、もう何もあとの祭、どこにも人影はなかつた。弟の姿も見えない。再び家に取つて返すと、今農夫たちにかつがれて歸つた弟のあさましい姿。驚き悲しむ母親。
 とりあへず、醫者が二人來た。しかし、聞多のからだは、血だらけ泥だらけである。醫者は、ばう然としてほとんど手のくだしやうも知らない。
 聞多は、もう虫の息であつた。母・兄・醫者の顔も、ぼつとして見分けがつかない。からうじて一口、
「兄上。」
 とかすかにいつた。兄の目は、涙でいつぱいである。
「おお、聞多。しつかりせい。敵はだれだ。何人ゐたか。」
 たづねられても、聞多には答へる力がなかつた。ただ、手まねがいふ。
「介錯(かいしやく)頼む。」
 兄は、涙ながらにうなづいた。どうせ助らない弟、頼みに任せてひと思ひに死なせてやるのが、せめてもの慈悲だ。決然として、兄は刀を拔いた。
「待つておくれ。」
 それは、しぼるやうな母の聲である。母の手は、堅く五郎三郎の袖にすがつてゐた。
「待つておくれ。お醫者もここにゐられる。たとへ治療のかひはないにしても、できるだけの手を盡くさないでは、この母の心がすみません。」
「母上、かうなつては是非もございませぬ。聞多のからだには、もう一滴の血も殘つてゐませぬぞ、手當てをしても、ただ苦しめるばかり。さあ、おはなしください。」
 兄は、刀を振りあげた。
 その時早く、母親は、血だらけの聞多のからだをひしとだきしめた。
「さあ、切るなら、この母もろともに切つておくれ。」
 この子をどこまでも助けようとする母の一念に、さすが張りつめた兄の心もゆるんでしまつた。
 聞多の友人、所郁太郎(ところいくたらう)が、その場へかけつけた。かれは、蘭方(らんぱう)醫であつた。
 かれは、刀のさげ緒をたすきに掛け、かひがひしく身支度をしてから、燒酎(せうちう)で血だらけの傷を洗ひ、あり合はせの小さな疊針で傷口を縫ひ始めた。聞多は、痛みも感じないかのやうに、こんこんと眠つてゐる。ほかの醫者二人も、何くれとこの手術を手傳つた。かうして、六箇所の大傷が次々に縫ひ合はされた。
 それから幾十日、母の必死の看護と、醫者の手當てとによつて、ふしぎにも一命を取り止めた聞多が、當時の母の慈愛の態度を聞くや、病床にさめざめと泣いた。
「聞多、三十歳の壯年に及んで、何一つ孝行も盡くさないのに、今母上の力によつて、萬死に一生を得ようとは。」
 ほどなく明治の御代となつた。昔の聞多は井上馨(かをる)として、一世に時めく人となつた。從一位侯爵にのぼり、八十一歳の光榮ある長壽を終るまで、功績は高く、信望はすこぶる厚かつた。
 それにしても、この母の慈愛によらなかつたら、三十歳の井上聞多は、山口在に非命の最期をとげたであらう。まことにありがたく尊いのは、母の力であつた。


大内氏時代からの寺・円龍寺
円龍寺前の石州街道。奥が湯田方面。
「世外井上馨侯遭難之地」碑。
遭難碑前の石州街道。
袖解橋の碑。
袖解橋。道が拡張されて様子が変わった。
当時はこの道沿いに芋畑があった。

 
 このときの犯人は児玉愛次郎といって、萩城下の藩士でした。当時25歳(数え年)。
 のち井上馨の引き立てを受け、宮内省図書頭にまでなりました。
 30年以上経って、犯行を告白。共通の知人の杉孫七郎を通して謝罪、井上馨は快く許しました。
 児玉愛次郎が語った経緯を、「井上馨侯元治の難 児玉愛次郎翁談話速記」「両公伝編年史料」(山口県文書館所蔵)を参照して紹介します。

児玉愛次郎談・・・
 その日、財満新三郎の旅宿を訪ねた。
 財満は鶏をささげて帰ってきた。
「鶏を買うたが、これを食おうじゃないか。」
「それはよからう。」
 財満に、中井栄次郎、周布藤吾、有地品之允、山田春蔵、それに私と、湯田へ行って鶏肉の御馳走になった。
 私の他はみな剣術師範馬来の門人であった。私だけが内藤門下で、仲間に入っていた。
 湯田の瓦屋で湯に入って鶏を食うて、それから腹がふくれたから、 「今から運動に出ようではないか」 というて出た。
 財満は残り、有地と山田が先に出た。中井と周布は後から出て、私はずっと遅れて出た。
 円龍寺の少し手前まで行ったところ、中井が駆けてやってきた。
「今あっちへ行ったのは井上聞多じゃないか」
「そうだったかも知れぬ。」
 今すれちがいに茶筅髷の武士が仲間を連れていったのをみたから、そう答えた。
「彼をやってしまわなければいかぬ」
 中井はそのとき藩主の御小姓であって、「殿様が井上はどうもおかしいことを言うと仰せられた」と話したこともある。
「おれ一人でやる」
と中井は言い捨て、どんどん行ってしまった。
 私は躊躇していたが、臆病を起して逃げたと言はれてもならんからと思って、あとから駆けて行った。
 まだ夜は更けて居らぬけれども真っ暗な晩で、どうも姿も何もよう分からぬ。
 その時分、井上はえらいとはおもわなかった。腕力家の方では軽蔑する気味があったから、中井がおれ一人でやってしまうといって飛んで行ったようなわけさ。格別井上が剣術が上手いというわけもなし、腕力が強いということでもなかったから、ついやってやるというつもりだったのだ。
「聞多さんでありますか。」
という声が聞えた。
「さうぢや。」
といふと、バタバタ組み合いが始つた。
「やれ」
といふので刀を引抜いて振上げたが、組合うてバタバタして居るから、斬り損うた。
 組合うていて、
「俺を斬るなよ、俺を斬るなよ。」
と言っているのは周布の声であった。
 そのうちにやみくもに二太刀三太刀斬りつけたが、向こうの体が転じたものだから、傍の石へかちりと斬りつけて火がピカリと出た。
 向こうの方に練塀のようなものがあって、井上はそのへりの方へ行った。
 頭の茶筅髷などはよくは見えぬだったが、バラバラになっておったようにおもう。
 そのとき井上は刀を抜いた。
 中井が、
「ソレ抜いたぞ、やれやれ」
といって斬りこんでいった。
 すると井上は受け流すような構えのまま、ツーッと飛んで逃げるから、私どもはこれを追いかけた。途方もない早い足であった。なんでも二丁くらいは追いかけたろう。
 袖解橋のさきに少し離れて家があった。湯田の方から来れば左側だが往来に横向きに建っている百姓家があった。その家の傍が芋畑で、芋の葉が高くなっておったと思うが、井上はその芋畑の中にゴソゴソと入ったようであった。
 こっちもあとから追いかけたけれどつい知れぬようになった。ゴソゴソ芋畑の中を捜したが知れぬ。
 家の中へ隠れたろうと言って百姓家のうちへはいってみた。家の者が炉を囲んで行燈をつけて話をしておったから、私と周布とが抜刀のまま入って、
「今こっちへ人が這入って来たろう」
「いや、入りはしませぬ。」
「嘘言(そらごと)を吐くと斬るぞ」
「決して嘘言は申しませぬ」
 どうも隠れた様子もないから、また畑の中を捜したけれども、どうしても分からなかった。
「これではとても手に掛からぬ。ここは井上の生家のある土地であるから、井上は地理をよく知っている。ぐずぐずしていることはいかぬ。散乱しよう。」
 それから皆、所を異にして分れた。
 泊まった家は台所を通らなければ借りていた所の私の座敷へ行かれない。台所のお内儀さんに見つかるといけぬと思って、一生懸命で羽織で刀を隠して、さうして奥へ行つた。
 翌々日かにすぐに萩へ戻ってたのでいっしょにやった人たちはどこへ誰がいったやら、分からぬようになった。
 そのあとに中井に会ってもむこうも言わぬし、こっちもそのことを話し出したことがない。このことについては一言も言うまいという誓いはせぬだったが自然と無言で、有地なども知ってはおったろうけれども一向言いはせぬというものだ。

※中井栄次郎
 天保14年生まれ。当時22歳(数え年)。 八組士椋梨藤太次男。先鋒隊。慶応元年6月13日、明木権現原暗殺事件犯人の一人として萩野山獄で刑死。
「少しは書物を読んでいて、胆力のあった者です。議論をするとすぐに刺し違えるという男で、人を斬ることを何とも思はぬし、剣術もよく使ひよりました。」(児玉愛次郎談)
※周布藤吾
 四境戦争石州口で戦う。のち病死。
「先鋒隊の年長者。喧嘩が大好き、喧嘩をすると一番先に飛び出して行く。剣術のほうは下手で、鉄砲を打つことを知っているくらい。いわば、ひやかし者、命知らず、お祭りの喧嘩なら一番先に出るという方で、人を殺すことなどは何ともおもっておらぬやつだった。」(児玉愛次郎談)
※財満新三郎
天保4年生まれ。当時32歳(数え年)。八組士。先鋒隊大伍長。慶応元年1月17日、内訌戦萩軍として絵堂に戦死。
※有地品之允
天保14年生まれ。当時22歳(数え年)。八組士。干城隊。のち弟2人とともに海軍中将。
※山田春三
 弘化3年生まれ。当時19歳(数え年)。八組士。のち知事歴任。宮中顧問官。

傍らの所郁太郎顕彰碑。
生家跡の井上公園に建つ井上馨像。


 公式伝記本「世外井上公伝」によると、井上自身の記憶では、襲われたあと、気がついたら芋畑の中に倒れていて、なぜここにいるのか思い出せず、激しい渇きをおぼえただけだったといいます。
 前方かすかに灯火があり、
「これは人家であろう。一杯の水を貰い受けよう」
 倒れたところからわずか七八間の距離だったが、視力朦朧として遠近がわからなくなっていた。匍匐して進み、やっと農家にたどり着いたところ、農家から人が出てきて、どうしたと訊ねるから、手真似とかすかな声で襲撃にあったことを通じさせ、一杯の水を請うと、水を与えてくれ、さらには駕籠に乗せて、家まで送ってくれた。
そう語っています。

 遭難後の目撃証言として、井上の親友の吉富簡一(矢原の庄屋。当時士分に取り立て)の話があります。「吉富簡一履歴」(山口県文書館所蔵)を参照して紹介します。

吉富簡一談話・・・
 9月25日朝、井上聞多に呼ばれて住まい(当時湯田の吉富助二郎方に下婢と住む)を訪ねた。
「今日は御前会議が開かれることとなった。大いに家老を罵詈してやる。」
「すでに萩から先鋒隊が800人も山口に入りこんでいるという。今日の御前会議を傍聴しているだろう、その席で家老を罵詈するとは大丈夫か。」
「これを見よ。」
 聞多は、前夜、世子(毛利元徳)より賜った『朝廷の御安危汝之を思ふべし』という手書を示し、
「今日の国難のときでも君上はいまだ朝廷のことを忘れていない。家老の身として驚くほかない。山口の用事が終わったら帰途必ず立ち寄りを待つ。御前会議の結果を語ろう。」
 同夜8時頃、用事を終えて帰りに円龍寺前を通ったが何も変わりはなかった。
 井上令兄家(湯田前町野上周伯医師宅借受)にいくと、式台に、農夫八右衛門兄弟によって、血汐のまま聞多が俵駕籠に乗せられ担ぎこまれたところだった。
 数か所の大傷で、かすかな呼吸の様子。駕籠のまま奥に入らせた。
 三条実美公付の医師に長野昌英と日野宗春と所郁太郎がいた。まず長野と日野を招いた。両氏は内科で、当惑して手を下すことができなかった。
 そこで所を招いた。さすが外科専門。助手をしてくれといわれたので、二人で血塗れとなり夜十時から三時まで傷口を縫った。
 初太刀で切り付けられた背筋の傷がもっとも大きかった。
 二太刀以降は無茶苦茶に切り付け、頭部面部股その外に深手があった。
 家に帰ったのが午前4時だった。

※所郁太郎略歴
 天保9年(1838)美濃国(岐阜県)に生まれ、医師の養子となる。
 大阪で緒方洪庵に学んだあと、京都で医院を開業、長州藩邸に近く、深く交わる。文久3年(1863)八・一八政変の七卿落ちのとき共に下向し、吉敷新町に医院を開業。
 長州藩士に召し抱えられ、遊撃隊参謀として高杉晋作を助けて萩内訌戦を戦う。
 戦後、腸チフスに罹り、慶応元年(1865)3月12日、吉敷で亡くなる。享年28。


 井上馨は、その後順調に回復し、4ヶ月後の元治2年1月16日には鴻城軍総督として佐々並に出陣、藩内訌戦で奇兵隊諸隊側勝利に貢献しました。

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