山口市の幕末維新の歴史

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幕末ドラマチック山口

三条実美の家・何遠亭(かえんてい)

場所:湯田温泉 井上公園内

登場人物:三条実美、毛利敬親、毛利元徳、土方久元、真木和泉ほか

時:元治元年(1864)5月1日〜11月15日

 文久3年(1863)8月18日、孝明天皇と中川宮、薩摩藩、会津藩主導で、大和行幸を唱える攘夷派を排除する政変が起きました。
 参朝を停止された攘夷派の公卿たちのうち、三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉の7人が、攘夷の本懐を遂げるため長州へ下向しました。
 これを七卿落(しちきょうおち)といいます。
 7人は、はじめ三田尻御茶屋内の招賢閣に滞在していましたが、沢が生野に挙兵せんと脱走したため、関所で厳重に出入りを取り締まっている山口の地へと移ることとなり、三条は湯田の草刈屋敷に、他の五卿は大内の氷上山真光院に、住まいを替えました。
 三条が滞在した草刈屋敷の藩士草刈は保守派のためいろいろと居ずらく(屋敷はのち攘夷派により放火され焼失)、また手狭ということで、井上家(井上馨の実家)へ移ることが計られました。しかし井上家も建物が不足の為、新たに離れを増築、そこへ三条は移りました。
 そのとき笠間藩の儒学者加藤有隣が長州へ下向し三条に従っていました。三条は加藤に新たな離れに名前を付けるよう命じ、「何遠亭」と名付けられました。
 何遠亭に三条は5月1日から11月15日まで滞在しました。
 この間、禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐と大きな出来事がたてつづきに起き、悪化する政治的立場に苦渋の日々を送りました。

 平成27年6月22日、湯田温泉の井上公園内に何遠亭が復元されました。
「何遠亭復元開館」参照

 
「七卿方山口御下リ之節御旅館差図」(山口県文書館所蔵)より

 何遠亭の復元のもととなった図です。

 
「高田御殿御住居差図」(山口県文書館所蔵)より何遠亭部分

 
 何遠亭の図は、他の文書でもあります。微妙に違います。

 
「高田御殿御住居差図」(山口県文書館所蔵)赤丸囲みの建物が何遠亭


 当時は全体を高田御殿、または高田館と呼ばれていました。何遠亭はその一部です。他の建物には御付の方々が住んでいました。
 もとは井上家ですが、おそらく中央右の大きな建物がそれで、他の建物は三条実美が住むにあたって増築したのではないかとおもわれます。
 何遠亭も新築の建物でした。

 
「山口野田御住居御移見へ建添何遠亭引移見積書」(山口県文書館所蔵)より


 三条実美が長府へ移ったあとの何遠亭がどうなったかは不明です。
 この図は明治初頭に山口市野田に建築された毛利家の野田御殿の図に描かれた何遠亭です。これによると野田御殿へ移築されることも検討されたようですが、実際に移築されたかどうかは不明です。


●三条実美が何遠亭(高田御殿)に滞在中の出来事

元治元年(1864)
5月1日

三条実美、草刈屋敷から井上家の屋敷に移る。高田御殿と呼ばれる。
(同日、東久世と四條が氷上山真光院から湯田の龍泉寺へ移る。前町御殿とよばれる。また、三條西と壬生が草刈屋敷へ移る。湯田御殿とよばれる。)

5月8日
三条実美、龍泉寺における錦小路頼徳の葬儀に出席。錦小路の亡骸は赤妻に葬られる。

5月9日
三条、五卿と赤妻に詣でる。

5月11日
真木和泉と中村円太、三条に拝謁。

5月12日
三条、三条西に会いに湯田御殿(草刈屋敷)へ行く。

5月17日
三条と諸卿、毛利敬親と上京について会議する。その後宴会。

5月18日
三条、山口大神宮に参拝。

5月19日
三条が真木和泉、水野丹後守、土方久元、中村円太ら諸士を召し、密議する。

5月24日
湯田御茶屋へでかけ、藩主世子の毛利元徳と面談。

5月25日
三条と諸卿、錦小路頼徳の初月忌のため赤妻へ墓参りする。
高田御殿に帰ってからは、楠正成の忌日につき、祭壇を建て、霊前にて文を作り、歌を詠して之を祭る。

むかし思ひ今をはるにもくすの木の其たかゝりし蔭あふくなり
いつはあれとけふはことさら湊川瀬々の白波袖にかけつゝ
三条西季知

万代も臣の鏡と尽しにはまことをあふくけふにも有かな
東久世

我のみか此国人は湊川にこらぬ末をはたいこそすれ
たゝならぬ身のいさをしはくますともにこらえてはるは菊水の旗
壬生

5月27日
三条、諸卿と乗馬を試みる。新たに八幡に馬場を築かせ、この日完成したため。

5月29日
三条、土方久元へ甲冑を与える。

6月5日
三条と諸卿、毛利元徳が兵を小郡で練兵するのを見学する。

6月7日
真木和泉と諸士、高田御殿にきて、三条へ上京の議を告げる。

6月9日
6月5日夜に起きた池田屋の変が伝わる。

6月11日
三条、山口政事堂での藩の大会議に参加。

6月14日
三条らに従う浪士らが暇を乞う(池田屋の変をうけて久坂玄瑞らが兵を率いて上京するのに参加するため)。

6月16日
藩家老の福原越後、高田御殿の三条に挨拶に訪れた後、先鋒第一軍として出陣。

6月21日
三条と諸卿、朝倉八幡宮に参拝。

7月3日
錦小路頼徳の祠(赤妻社)が完成したので、三条ら諸卿は参詣し、祭典を挙行。夕方、高田御殿に帰り、酒饌を設ける。
 →「幕末の舞台/赤妻神社・錦小路頼徳墓」参照

7月4日
三条ら、毛利元徳を訪ねる。

7月5日
田所壮輔らが京都より来て先発隊の状況を報告。三条ら、元徳軍に同行して上京しようと会議する。

7月9日
三条が野村靖を毛利敬親のもとへ遣わし、進発上京の意志を伝える。

7月10日
毛利敬親が高田御殿の三条のもとを訪れ、餞別の錦の直垂をおくる。

7月11日
三条公、諸卿とともに山口に行き、暇を告げる。

7月12日
夜、三条は土方久元を密室に招き、直接旧用の直垂を賜いて従来の勤仕の労をねぎらう。

7月13日
三条ら諸卿、早朝に京都へ向けて出発。毛利元徳の一行に同行。軍勢1万とも3万ともいわれる。

(7月19日 京都で禁門の変。長州藩兵敗退)

8月4日
三条実美、高田御殿に帰り着く。

8月5日
砲声が遠雷のように湯田で聞こえ、下関で外国艦隊との戦争だろうとの噂が出まわる。
五卿のもとへ有志がおしかけ、動かない五卿をつきあげる。
「五卿が長州へおいでになったのは攘夷の先鋒をするというのが一つの御趣意ではないか。なのにいま目の前でドンドンやっているのに安閑としていてよろしいのか、ぜひ馬関へ御出でになって攘夷の先鋒をなさい、我々もお供する。我々は馬関で討死するからぜひおいでなさい。」

(8月5日〜7日 四ヶ国艦隊と下関で戦争。長州藩敗北。)

8月6日
高田御殿で五卿が会議。馬関出張の意志を伝えるため、土方久元を山口へ派遣。
「なぜ御出でにならぬか」
「兵を借りようと思ったが貸さぬ。そうかといって我々3人4人がいってみたところが仕様がない。」
「これは怪しからぬ。たとえ兵を貸さぬからといって、いまどんどんあそこでやっているのに安閑としていてよろしいのか。長袖はまさかの時にはだめだな。よろしい、あなた方が御出でにならぬなら私どもで行く」

8月8日
午後 三条と東久世と四条、周囲の圧力にいたたまれず馬を馳せ、出かける。
小郡御茶屋で毛利元徳と会見。外国艦隊と和議を結ぶというので意見する。

8月9日
三条と壬生、山口へ行き、毛利敬親と会見。和議をなじる。

8月13日
三条と東久世、馬で、山中宿場の毛利元徳を訪問。和議について異議を唱える。夜、帰館。

8月15日
京都御霊祭につき高田御殿に五卿集う。

8月20日
三条ら、長州藩が外国艦隊と和議を結んだことに失望、東行し、安芸か備前に向かうことを検討。
奇兵隊参謀福田侠平、山県有朋が高田御殿へ来て三条に拝謁、東行を引き止める。

9月10日
三条、土方久元に大鯉を下す。

9月12日
岩国領主吉川監物、高田御殿に参殿、三条と面会。

9月17日
三条、土方久元らを召し出して会議。結果、保守(俗論)派が沸騰して情勢が予測しがたいとみなが引き止めるので、東行を取りやめる。

(このころ萩より保守派の藩士が続々と山口へ出てきて、禁門の変などを引き起こした藩政権を批判する)

9月19日
午後、三条、黒川・矢原辺まで遠乗り。

9月21日
三条と東久世と四条、ほうべん山に登る。

(9月25日 井上馨、袖解橋で襲われ重傷。→「幕末の舞台/井上馨遭難の地」参照
 9月26日未明 周布政之助自害)

9月27日
三条ら諸卿、馬での遠出を試み、ついでに松茸狩りを楽しむ。

10月6日
高田御殿にて、因幡の有志者より因州米子での決起を持ちかけられた件について、会議。拒絶する。

11月1日
御遠馬といって須佐へ4日に出張を予定する(須佐への転移)。

(藩主父子、謝罪の態度を表明し、幕府の条件を受け入れる。)

11月4日
須佐が保守(俗論)派の模様に変わったので、須佐行き断念。

(11月11日 三家老、禁門の変の責任を負って切腹。)

11月14日
夜、奇兵隊の書が届く。萩城では諸隊討伐の命を下すようなので、山口では防戦しがたく、長府へ移る。ついては諸卿も転移を願う云々。

11月15日
奇兵隊総督赤根武人が拝謁。三条ら何遠亭で会議し、午後湯田を発する。三条、東久世、四条は馬で、三条西と壬生は駕籠で。


■何遠亭
住所:山口市湯田温泉2-5
観覧料:無料
開館時間:4月〜5月(10:00〜17:00)
6月〜9月(9:00〜18:00)
10月〜11月(10:00〜17:00)
12月〜3月(10:00〜16:00)
定休日:水曜日

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