山口市の幕末維新の歴史

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幕末ドラマチック山口

石州街道大曲り〜政之助の憂鬱

場所:山口市周布町

登場人物:周布政之助ほか

時:元治元年(1864)9月


 山口市小郡と島根県津和野を結ぶ古い道を石州街道といいます。いまは市民より「旧道」とよばれています。
 このうち湯田温泉と矢原の間に、カーブを描く部分があり、江戸時代「大曲り」と呼ばれていました。
 大曲りは現在、車が通れない部分もあり、また県道200号(通称山大通り)が分断している部分もあり、気づかれにくくなっています。
 明治時代に入って大曲りを経由しないまっすぐの道が作られたことで早くから裏道になりましたが、江戸時代は誰もがここを通りました。
 幕末でいえば、攘夷の為に下関へ向かう久坂玄瑞、奇兵隊創設や外国艦隊講和に走る高杉晋作、長府へ移る五卿、ほか桂小五郎、井上馨、伊藤博文、坂本龍馬、中岡慎太郎などみなここを通っています。

A小郡方面へさらに進むと、京栄旅館から右に入るのが大曲り
@赤い交差点は井上公園と湯田温泉駅への分岐点。中央が石州街道
C道端の地蔵堂は古道の証
Bいまは生活道路です
E通りを越えて左が周布公園
D山大通りに分断されてます
G住宅街の道も昔は田の中の道
F大きく曲がってるので大曲り
I右へそれる道があります
Hずっと曲がってます
K石州街道にでます
J右へそれると吉富家があります


 とりわけ矢原に家があった周布政之助は頻繁にここを歩きました。
 大曲りの入口付近に大庄屋吉富家があり、周布政之助はその離れを借りて住んでいました。
 元治元年9月15日、その日も周布政之助は大曲りを歩いていました。
 このころ藩は、禁門の変の責任を問われ、朝敵とされていました。幕府からは、藩主父子の官位ならびに将軍の偏諱称号をはく奪されたうえ、藩主父子の隠居、10万石への削減など厳しい処罰が検討されていました。
 この緊急時に、周布政之助は謹慎処分(野山獄に勝手に入って高杉晋作を訪ねた罪)を解かれ、藩の為に働いてくれと登用されました。
 しかし、藩がつぶれようかというこの事態を防げなかったのは、藩政府の役人として長年指導していた周布政之助らのせいです。
 岩国藩主吉川経幹に、幕府との仲介役を依頼した時も、そのことを指摘されました。

麻田氏は吉川侯に謁し、陳情した。
「今回の国難は君上父子が関知したものでは全くない。すべては上京した人々の罪である。ゆえに幕府より問罪使が来たならば、宗家のためににひたすら尽力あらんことを懇願す。」
吉川侯は承知して引き受けて曰く、
「我が身命のあらんかぎり、尽力すべし。しかし今日の形勢に至らしめたるは誰の責任であるか。」
「公輔等は従来藩庁にあって万般の政務を担任した。そうして禍を未発に防ぐことができなかった。今日の国難を醸したことについて、その罪を謝りきれない。君上父子に対し、じつに恐縮に堪えない。閣下、宗家のため今回の難局を救う労を取られることにあたっては、公輔の首級をもって陳謝の一材料と為せよ」
吉川侯はこれを聞いて、厳然として曰く、
「公輔、二言はないだろうな。」
麻田氏、襟を正して曰く、
「公輔、愚なりといえども毛利家中士の身分である。武士としてどうして両舌をもてあそぶことがあろうか。」
「その言葉、真によろしい。さすがに公輔は忠臣である。しかれば逸品を与えよう。」
と、吉川侯は座を起ち、奥間より短刀を携えてきて麻田氏に賜った。
 ここにおいて麻田氏が吉川侯が死を遠回しにいっていることを悟った。
(吉富簡一談話速記より)

 これが8月6日の話です。
 その後、周布政之助は藩主父子よりこの難局を指導してくれと命を受けましたが、気力盛り上がらず、9月5日には自害を図って妻に止められました。
 9月10日、藩主毛利敬親は、元気のない周布政之助に役所の指揮をとってもらうことをあきらめ、かわりに幕府の追討使の応接のための準備を命じました。
 周布の気持ちとしては命をかけて藩に尽くしたいのに、この国難を招いた責任が気力を奪って、どうにもならない心情でした。
 それで役所(山口政事堂)へも出勤せず、家で鬱々と過ごしていましたが、藩主からは出勤の催促がしきりにきました。
 9月15日、周布政之助はひさびさに山口政事堂に出て、藩主に謁見しましたが、意気消沈して全く元気がない様子でした。
 心配した兼重慎一が、共に帰ろうと誘いました。兼重の家も矢原にありました。
 山口から矢原まで、兼重は元気づけようといろいろ話をしましたが、周布は萎れたままでした。
 大曲りを歩いていると、すっと東の方の山の上から、満月がさして来ました。
 そのとき、周布政之助がためいきをついて、
「ああ、今夜は良い月じゃのう。昔は月を見れば面白かったが、どうもならぬ。月を見れば悲しみとなり、山を見れば悲しみになる」
 そう嘆きました。

 周布政之助は、9月26日の午前5時頃、庭へ出て、背後にいる妻に気づかれないように、隠し持った短刀で喉笛を切り、自害しました。
 前日、心配して萩から出てきた周布政之助の二子にむかって、「おまえら、私の死骸を街道のそばに埋めよ、敵兵が侵攻してきたら、私の霊をあらわすことで叱咤して、敵を追い返すべし」と遺言しました。
 それで周布政之助の遺骸は、石州街道大曲りのそばに埋められました。

 その周布政之助の墓があるのが、山口市周布町の船田墓地です。この船田墓地には吉富簡一など吉富家の墓もあります。周布政之助の墓は東京や地元三隅などにもありますが、当時使っていた「麻田公輔」という名の墓はここだけです。
 のち遺骸は郷土の長門市三隅にある一族の墓所へ移されたといいます。

 時代は下って、昭和6年9月「嗚呼長藩柱石周布政之助君碑」が墓地の隣に建立され、11月5日に除幕式が行われました。
 書は毛利元昭(藩主毛利敬親の孫)。  


 周布顕彰碑のまわりは周布公園として整備されました。
 また、このあたりは周布政之助の名前から、周布町と命名されました。


<周布政之助 自害までの二か月間の行動>

■7月24日:藩主毛利敬親、周布政之助と清水清太郎に、上京して禁門の変の後事の処理を命じる。
■7月26日:一村諸子のために留別の詩をつくり、継嗣の公平にわたす。
■7月27日:獄中の高杉晋作を訪問した罪で閉塞中の周布政之助(麻田公輔)、このころ息子2人と吉富簡一を連れて秘かに三田尻に入り、会議の状況を探る。このとき息子に、「今日の形勢幕軍必ず来り攻めん。果たして然らば汝等唯格闘して死するを期せよ」
■7月29日:この頃の周布政之助が作った漢詩 に、
山河四塞護鴻城
人事揚々幾変更
聚散興亡君莫間
人間到処只忠誠
■8月3日:周布政之助、湯田瓦屋にいる伊藤俊輔を山口政事堂に呼び出し、姫島集結の外国艦隊に止戦を申し出るよう命じる。夕刻、政之助は岩国に発つ。吉富簡一も同行する。
■8月4日:周布政之助、岩国に着く。
■8月6日:周布政之助、岩国で吉川経幹公に拝謁。
■8月7日:周布政之助、岩国より戻り、吉川経幹の意見を伝える。
■8月9日:周布政之助、朝廷・幕府への上書案をもって再び岩国へ赴く。
■8月13日:周布政之助、岩国で、三条実美の檄文を運ぶ途中の加藤有隣からその文を読んで怒る。有隣を止める。
■8月24日:周布政之助と家老清水清太郎、岩国を発する。
■8月27日:周布政之助、帰山途中、政馬関総奉行根来上総とともに長府藩・清末藩に赴き、藩政府の方針を伝えるよう命令を受け、すぐに赴任地へ向かう。
■9月5日:この夜、周布政之助が自害しようとするのを吉富簡一がとめる。簡一、心配して刃物を隠す。この夜以降、周布妻が徹夜して見張る。
■9月10日:藩主、周布政之助に追討使応接の調査を命令する。政之助、国家大難にのぞんでは命を捨てても鴻恩に報ぜんとし、日夜千辛万苦するも精気消滅し、茫然として日を暮らし、近頃は腹を下し、気力ますます衰えているが、命を受けた仕事を遂行する。
■9月15日:周布政之助、山口政事堂へ出仕。帰宅路を兼重慎一とともにたどる。 ■9月17日:周布政之助、一族の繁澤右衛門に書を送り、嗣子公平の一身を依嘱する。
■9月18日:周布政之助、公平に宛てて遺書を書く。
■9月20日:この頃周布政之助、刃物を隠されたため、絶食を始める。
■9月23日:吉富簡一、周布政之助の様子が危ないので、萩に居る公平と政之助の実兄児玉伝兵衛に、山口に来るよう手紙を書く。
■9月24日:周布政之助、吉富簡一宛の遺書を書く。
■9月25日:政之助、藩主宛に遺書を書く。また杉孫七郎宛にも書き、後を託す。
       兼重慎一、心配して訪問。若い頃を思い出し、語り合う。
       この日、杉山孝敏が訪問し、生姜の梅漬けで冷酒を飲んでいる姿を見る。
       萩から政之助の二子(繁澤昌三郎・周布公平)が着く。
■9月26日:午前5時頃、周布政之助自害。
 

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