山口市の幕末維新の歴史

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幕末ドラマチック山口

法明院〜幕府の軍目付捕囚

場所:山口市宮野下

登場人物:長谷川久三郎、井上三郎五郎ほか

時:慶応2年(1866)6月〜8月


 慶応2年6月29日、四境戦争(第二次長州征伐・幕長戦争)のさなか、石州口の幕府軍の軍目付一行9名が、現在の山口市宮野下にある法明院に着きました。
 9名とは、軍目付の長谷川久三郎、御徒目付の須藤鎧三郎、小人目付の清水直次郎。それに長谷川の家老の加治小弥太、用人の鈴木鍵之助、家来の牧野孝助、鶴岡司、高塚鋳次郎、樋口新吉です。
 一行は法明院の本堂の隣にある庫裏に住みました。そこは、暴徒の襲撃を防ぐことを名目に、竹矢来(竹を粗く組んだ垣)で取り巻かれていました。
 滞在中の食事は、朝夕は一汁一菜と香物。昼は一汁二菜と香物。1日・15日はさらに取り物二三種吸い物と酒がつきました。
 長谷川の家来の食事はちょっとおちて、朝昼夕いずれも折詰の飯、煮しめ二種、香物でした。
 みな風呂は毎日入れました。
 長州藩は、警備のものに、一行に対しては手厚くするよう、ただし話しかけてはいけないと命令を出していました。
 宿舎の警備の責任者は、当時山口町奉行兼代官を勤めていた井上五郎三郎(井上馨の兄)でした。
 井上は日をおかず駕籠でご機嫌伺いと状況視察に訪れ、井上の家来の黒瀬十三郎が日夜寺に詰めていました。
 宿舎の警衛には鐘秀隊(山口の中間で構成された隊。諸隊の一つ)一小隊があたり、日々交代で警護しました。
 医師の田辺玄令、長宗順蔵は三日おきくらいに宿舎に来ていました。
 これだけ丁寧に扱っていながら、その実態は捕囚といえるもので、軍目付一行は法明院から出ることは許されていませんでした。
 幕府より石州口第二陣に加えられた津和野藩のお目付け役として幕府から派遣された軍目付が、敵地の山口に捕虜の様に居るのは、津和野藩の苦渋の選択があったのです。

A山間の奥に法明院。
@国道9号線に「山口市指定文化財 宮野のミツガシワ自生地」看板から入ります
C鐘突堂で大晦日賑わいます
B法明院本堂。裏にミツガシワ自生地があります
D本堂右手に庫裏がありました


 津和野藩はもともと長州藩の立場を理解し、八・一八政変や禁門の変で苦境に立った長州藩のとりなしを幕府や朝廷に行ってきました。
 幕府より石州口第二陣に加えられたときも津和野藩は長州藩に、「長州藩の尊攘の功を承知しており、藩論は討長を不可とする。しかし今第二陣を辞退すると幕府に嫌疑を受けるので表向きは幕府に従うことはやむをえないことを了承して頂きたい。」と伝えていました。さらには城下を戦火に巻き込まないよう密約も交わしていました。
 そういうことを知らない幕府は、石州口の軍目付(ざっくりいうと津和野藩が戦場でどういう働きをしたか監視して幕府に後日報告する役目)として長谷川久三郎一行を派遣しました。
 5月16日に一行は津和野城下永明寺に入り、6月5日には藩校養老館を本営としました。
 四境戦争において大島口の開戦は6月7日、芸州口の開戦は13日、石州口の開戦は16日、小倉口の開戦は17日です。
 6月15日、石州口戦線を担当する大村益次郎が軍勢を率いて藩境を越えて侵入、津和野藩との密約どおり城下は避けて益田へ向かいました。
 益田の市街戦で長州藩が勝利した6月17日、長州藩は津和野藩へ、軍目付を引き渡してほしいと申し入れました。「幕兵が領内へ乱入し不正不義を働いた(大島口での戦争の事)ので士民が義兵を起こした。津和野藩の藩論は承知しているが、幕府の軍目付を引き受けているというので士民が激高していて鎮撫が難しいので、速やかに引き渡してほしい」。
 軍目付を引き渡したら幕府から攻められると津和野藩は拒否しました。長州藩は、軍目付を引き渡さないなら城下を攻撃すると脅しました。
 交渉のすえ、6月24日、津和野藩家老大岡の専断という形で、軍目付の体面と生命の保障を約束したうえで引き渡しが承諾されました。
 津和野藩は軍目付の長谷川に対して、長州を視察し、長州藩が尊皇攘夷の他、異心のないことを幕府へ申し述べることが得策と説得しました。
 長谷川は、「我々が拒否したら津和野城下が戦場となるのでこれまでの御厚意を無にしてしまう。そこで長州の申し出の通り山口へ出かけ、長州の望む通り、朝廷・幕府への嘆願書を受け取り、芸州に送り返していただきたい。」と了解しました。
 ようは、捕虜になるのでなく、あくまでも長州藩主に嘆願書を受け取りに山口へ行っただけだということで体面をとりつくろったのです。
 6月27日、軍目付は長州藩へ引き渡されました。藩境の野坂口関門まで、津和野藩士が送り、そこで長州藩士へ引き継がれました。
 一行は石州街道を通って、はじめ宮野村七房の庄屋徳万伊助方(もしくは龍花院か)に宿泊。しかしここは街道の様子が見えるので、畑村のおくにある法明院に29日、移されたのです。
 長谷川の目的は、長州藩主の毛利敬親と世子元徳に応接して、幕府への嘆願書を受け取ることにありました。しかし長州藩は、藩主父子は謹慎中であるので幕府への申し立ては家来を通じて行うと断り、しばらく滞在して長州藩の国情や民情を見聞して報告してほしいと、申し出ました。
 長谷川は、藩主父子に会うという山口へ来た大義名分が消えたので、体面から生命を絶つ決心をし、7月9日朝より徒目付、小人目付とともに絶食に入りました。
 11日、長谷川の家老の加治と用人の鈴木が、責任者の井上五郎三郎らに面会を求め、軍目付らは餓死するより武士道にのっとり切腹したいので帯刀を渡してほしいと伝えました。
 井上らは長谷川の申し分を藩の要路に伝えると説得し、了解した長谷川らは出された白粥を食しました。
 このあと、長谷川らは、長州藩の国情や民情の見聞のため、宿舎近辺を視察しました。いずれの村でも松明兵糧炊き出しの用意ができており、士農工商に至るまで戦争の決心は固いと後日報告しています。
 8月25日、朝廷から征長休戦の勅許がありました。27日、幕府の征長総督より休戦令が布告されました。
 これをうけて28日、軍目付一行9名は解放され、法明院を出発しました。津和野を通って、芸州に着いたのは9月10日のこと。長谷川は江戸に帰って謹慎を命じられましたが翌年4月には許されました。
 この、幕府の軍目付を長州藩に引き渡した件が、津和野藩にとってもっとも神経を使った幕末の事件で、風向き次第では津和野藩が幕府軍に攻撃されて滅んでもおかしくない出来事でした。
 津和野藩にとって法明院の名前は忘れられないものとなったでしょう。

<津和野町史第四巻参照>
 

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